ヤマダタケシ

バトル・ロワイアル 特別篇のヤマダタケシのネタバレレビュー・内容・結末

4.5

このレビューはネタバレを含みます

2021年7月 U-NEXTで
・少し追加でシーンが入っただけだけど、それによって登場人物の背景や生活の崩壊具合が分かりBR法という荒唐無稽な設定に対し、ある程度のリアリティを持たせ、またいわゆる善人悪人では無く生きるためにそうせざるを得ない背景を浮かび上がらせる(特に相馬みつこ)。
・またラストにレクイエムという形の追加シーンが加わり、「走れ。」では無く「こういう時、大人は子供になんて言ったらいいんだろう」という言葉で終わる事によって、その「走れ。」というメッセージが子供たちの世代にただ力強く発されたものではなく、もう自分たちの世代からはこれしか言えないという意味合いも含んだものになっていた。
・やっぱり繰り返し観る程に、より現実と重なってみえる内容になっていっていてヤバい。
・北野武という配役について、むりやり彼の監督作と繋いで考えるなら、今作も死に場所を探している男という部分では共通する。ただ北野映画における死がただただ空虚なものだったり、うっすらとした厭世観を感じさせるのに対し、今作のキタノは死にゆく中で次の世代に何かを残そうとしている感じがあった。それこそが今作の深作欣二の存在感だったと思う。

2022年5月 音声ガイドを書き上げたタイミングで
 最初に大げさな事を書くと、この映画が特別編でより〝青春映画〟としての強度を強くしている事が、結果としてこの映画の設定、前提にされている〝大人たちの未来に対する絶望〟とその結果生み出された〝奪い合うシステム〟に打ち勝っているように思う。
 特別編を見るとこの映画で大人側から発せられるメッセージはことごとく説得力を失っている。
 ある意味、この映画を大人キャラクターの視点から見ると、まさに子供に対してかける言葉を失い、特に教師キタノに関しては必死にそれを探している感じがある。
 「ガンバレ!」と連呼する秋也の父親、「強くなりなさい」と言いながら娘を中年オヤジに売り飛ばす光子の母親、そしてバトルロワイヤルというゲーム自体を指してキタノが言う「人生はゲームです。戦って勝ち残って、価値のある大人になりましょう」と「中川、ガンバレ!」。
 どのセリフも、自分たちの世代が作り上げてしまった、奪い合うことでしか生きていけない世界に対する絶望と、そこに残された子供たちに対してそのシステムの中での強者になる力を身につけなさいという意味しか持たない。
 しかし、同時にその言葉自体が空虚なことも大人たちは知っている。だからこそ最後に「こんな時、大人は子供になんて言えばいいんだ」の言葉が出てくるのだと思う。
 そう思うと、特にキタノを中心に今作を観ると、彼はずっと子供たちにかける言葉を探していたように思う。最初の「人生はゲームです。戦って勝ち残って、価値のある大人になりましょう」から「風邪ひくなよ」「中川、ガンバレ」そして最後の「こんな時、大人は子供になんて言えばいいんだ」。自分たちが作り上げた競争社会の中で殺し合う子供たちを見ながら、その子供たちに話す言葉が分からない。だからこそ、実は子供に対して臆病だったのはキタノとも言えるのかもしれない。その上で、最後何も言う事ができないという結末に至るのだ。
 だからこそ、そのかける言葉が見つからない大人に対して、自分に対して、そして自分たち子供に対して秋也が言う「走れ」の言葉は力強い。それは、大人たちが作り上げ、そしてそこに絶望している価値観とは違う方向に、大人たちを置いて〝走って〟行く言葉だから。
 だからこそ、その「走れ」を前にしてキタノは何も言う事ができない。
 昔観ていた時はこの「走れ」という言葉は、深作欣二監督が子供たちに言った言葉の様に聴こえた(てか、通常版だと最後が「走れ」なのでそうなる)。
 しかし、特別編で今回改めて観てこの脚本を書いたのは深作健太であることを意識し、これは同世代が同世代に向けた言葉としての「走れ」なのだと思った。
 その上で、残される大人たちがラストに来る事によって、それと相対化される大人の言葉として何を言ったらいいか分からないが来て、どのメッセージが誰が言ったものなのかがよりハッキリ意識される。
 その上で、やはり今作で重要なのは青春映画としての強度だと思うのは、大人が作ったゲームの中で行われる殺し合いの中ですら、彼らには強い友情や恋愛の瞬間があることが描かれ、また友人が殺し合いの相手にされてしまったとしても、その前にあった友情や関わり方がキチンと描かれているからだと思う。
 本当に一瞬で死んでしまうモブのような生徒にもちゃんとドラマが見える。崖で殺されたユッコは秋也のことが好きだったわけだが、行きのバスの中、典子が秋也にクッキーを渡すシーンで困った顔をしている。
 恋愛周りだと、杉村、千草、琴弾の三角関係が印象的だが、いかに過酷な状況でも彼らのエモーションがそれに勝っていく。
 もちろんきれいごとばかりでは無く、そのお互いに奪い合う中で憎しみが生まれてしまうし(灯台のくだりとか)、殺し合いの中で行われることはキレイごとでは無い(レイプの臭わせ、心中、殺し合い自体)。
 それでも、今作が青春映画として終われるのは、彼らの気持ちがひとつになっていたバスケットボールのシーンが間に何度も入るからであり、その中でも、トップレベルでモンスターなプレイヤーとして描かれていた光子が、つまりクラスメイトをクラスメイトとも思わず殺していたような少女が、クラスメイトたちと同じ気持ちを共有した瞬間(試合に勝った瞬間に思わず興奮で立ちあがる)を見せ、その輪の中に入りたいと思いながらも、キャラじゃないし、というようにためらう姿を見せていたからだと思う。
 つまり、このゲームの中でトップレベルに感情移入できなそうなクラスメイトも、クラスの一員だった瞬間を見せることによって、ゲームによって奪われてはいるが、彼らに最初からあったクラスメイトととしてのつながりを見せているのだ。
 しかし、そんなみんな仲が良かったクラス、なんて言う風なきれいごとが示されるわけでは無い。
 むしろ、ヒロインである中川典子から見たクラスは必ずしも居心地がいい場所では無いと思う。
 恐らく、クラスカースト的には中、中の下くらいのところにいたっぽい(恵が言う「美津子たちのグループとはあんまり仲良く無かったから」が暗にそれを示す)典子が、いじめられるシーンが冒頭で示され、またその経験をしている典子はゲーム開始直後「クラスメイトを信じられない」と言う。そこでクラスメイトと一緒に脱出できないかなぁ、と言える秋也はナチュラルにクラスカースト的には恐らく上位だったようにも感じる。
 しかし同時に、典子が自らもクラスの中で弱者であるからこそ、キタノやノブなど、クラスから外れている存在にも優しい言葉をかけられたことは、ある意味バスケの試合とは異なる次元での、クラスメイト同士のつながりにもなっていたと思う。
・秋也と典子が、守る男と守られる女になるのは、まぁそれが二次戦後のリアリティと重なって描かれるとは言え、少し古臭い気もした。