KEKEKE

ブレードランナー ファイナル・カットのKEKEKEのレビュー・感想・評価

3.0
- 「古いSF映画」という現代のノスタルジアだ
- 哀愁的な未来像として当時描かれたロサンゼルスが、現在から遡ってそこに郷愁のように存在することの心強さを感じる
- 映画があり、夢があり、現実には訪れない2019年があるとして、それらは実際全て嘘ではあるのだが、人間が「本当」でアンドロイドが「嘘」ならばその両者を隔てる線引きがどこかに設定されているはずで、それが一体何なのかと問いかける映画のように見えた

- "観測可能なすべての物理的状態が人間と区別することができないのにも関わらず意識やクオリアを一切持たない存在"とは哲学的ゾンビのことで、物理的事実から出発して、意識の有無についての判断を決定することはできないというハードプロブレムを検証するための思考実験として提唱された
- 今作に登場するレプリカントは精神分析によって人間との判別が可能であるため厳密には哲学的ゾンビの定義には当てはまらない
- どちらかというとそれらと区別するための用語である行動的ゾンビというものに該当するっぽい
- そもそもこの理論はブレードランナーの公開後に提唱されたものであるため、リドリースコットが「意識」と「ゾンビ」を結びつけることはなかったはずだが、プリスの白地に目の周りを黒く吹き付けるメイクを見て、率直にゾンビ的なビジュアルだなと思った
- これは偶然の一致なのか、それとも、意識と無意識、自己と他人、こちら側とあちら側を区別する時に、ゾンビやドラキュラ、ロボットやゴーストなどのモチーフが持つビジュアル的な共通のイメージを人間は潜在的に共有しているのだろうかと、気になった

- エイリアンもそうだったが、ビジュアルが異常に凝っているというか、嘘の映画としてのクオリティが本当に高い
- それこそ映画の嘘と現実を判別するする術を無くすための熱意
- 人間とアンドロイドを現実と映画に置き換えると、ずっとCMを撮り続け、虚実の淡いをぶっ壊すために技術を磨いてきたリドリースコット自身が投影されている、彼の人生の結晶のような作品にも見える
- エイリアンのサブテーマ「人間と変わらぬアンドロイド」というモチーフを与えられた、リドリースコットとジェームズキャメロンが、その後に撮ったのがブレードランナーとアバターで、その事実自体がすげえ面白い

- 前衛的でアーティスティックな、セリフやアクションよりもビジュアルやショットの連続で魅せる映画は、その手法はかっこいいなと思いつつも、今の所あまり興味の対象ではないなと、フィンチャーやリドリースコットの作品を見て思う
- 老化症のエンジニアの部屋のセットはめちゃくちゃ好き
KEKEKE

KEKEKE