春とヒコーキ土岡哲朗

クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲の春とヒコーキ土岡哲朗のレビュー・感想・評価

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作られるべくして作られた映画。

21世紀になった年・2001に公開され、新世紀という人生で一度お目にかかれるかどうかな時を掴んでいて、さらに何回観ても面白い。最初に、大阪万博会場の太陽の塔が映る。1970年時点で少年だった人たちが21世紀に抱いた夢の象徴。ひろし「月の石が~!おれまだ見てないのに!」。あるあるな笑いどころでありながら、その世代の人たちにとっての思い入れの強さを表していて、軽く伏線。

21世紀の悪臭を消し、20世紀に戻そうとするケンとチャコは「21世紀は現実にあるべきものでなく、夢見るもの」と考えている。
大人たちが生活を放棄し、子供たちは手探りで生きる術を探し始める。過去にとらわれる人間より、先のことしか見えていない人間の方が実直。しかしそれは、「懐かしさ」を知らない年齢だからというだけかもしれない……。
スナックコントの部分が、話の流れから反れた小休憩なんだけど、大人のマネをする茶番をしているのが、「大人になりたい」という子供の期待があるからこそな気がして、奥が深い。

しんのすけやひまわりが自分の子であることも忘れて追いかける、ひろしとみさえ。責任を全て捨ててもしがみつきたい、少年の楽しさ。月の石を見ることができなかったひろし。そういう心残りが、良い思い出でもあり、だからこそ少年時代に帰りたいと思ってしまう。
人生の回想、成長し、就職し、結婚し、子供が生まれ、幸せな人生を歩んできたのだけれど、泣いてしまう。今も十分幸せだけど、もうあの頃には戻れない、その切なさこそが懐かしさ。泣きながら、大人であることを受け入れたひろし。懐かしい時代に浸りたい、それでも未来に向かいたいのが人間の性。

野原一家にラストチャンスを与えるケン。彼は未来に光を感じなかったから今回の騒動を起こしたが、その理由はもしかしたら、誰かの手によって、未来に光を差してほしかったからなのではなかろうか。シロにミルクをやるチャコ。彼女も悪人ではなく、人に“心”があって欲しかっただけ。そんな純粋な人間にこんな諸行をさせてしまうほど、人間が利便性に踊らされて心を失ってしまうのは悲しいこと。
正気になってからも、度々懐かしさに襲われるひろしは、20世紀の街並みを再現した部屋の出口を訊く。自分の礎となった時代への感情に勝つことはできず、ここからは「逃げる」しかない。閉まろうとするエレベーターを押さえつけ、自分の人生の温もりを述べるひろし。主観な人生なんだから、個人にとっての正解が正解。パンツを見られて初めて人間らしい顔をするチャコ。人の心を求めた彼女も、このシーンまでは心を失っていたわけだ。怒りではなく、恥じらいの方が人間らしい。

そして最後の勝負は、しんのすけが階段をかけ上がること。未来が欲しいという根性の、直球な体力勝負。しんのすけが転んでも、立ち止まっても、カメラは止まらない。この演出に、本当に必死に走り続けないと間に合わなくなる緊張感を感じた。それでも追いつき、未来を勝ち取った。過去の懐かしさがどんなに大きくても、未来>過去なのだ。この映画の敵は、多くの人間の中にある「懐かしさを求める気持ち」だから相当手強い。
計画が失敗したケンとチャコは、自殺を図る。しかし、ハトが飛び出し、自殺をやめる。生きようとする生命がそこにあるのに、どうして死ねようか。死に近づいて初めて、生きる心地を知る。そしてそれを「おまたがヒュンってなった」で片付ける粋。
帰宅した野原一家。ひろしとみさえの「ただいま」に、しんのすけが「おかえり」と答える。過去には二度と戻れないけど、未来(子供であるしんのすけ)は待っていてくれる。
最後にBGMとしてかかる曲、『今日までそして明日から』。「わたしは今日まで生きてみました そして今わたしは思っています 明日からもこうして生きてゆくだろうと」。結局やることは変わらない。今を大事にすること。