しの

笑いのカイブツのしののレビュー・感想・評価

笑いのカイブツ(2023年製作の映画)
3.9
創作の苦しみみたいな話かと思いきや、もっと普遍的な「こうとしか生きられなかった人」の話だった。安易に共感性を喚起するような描写を入れず、観る人によってはただ“不快な社会不適合者”という烙印をつけられるだけになるのではないか、というバランスになっているのがむしろ好感。

そもそも、主人公がなぜそこまで笑いに傾倒するのかという背景が具体的なエピソードの形では描かれないし、どこに向かって何をしたいのかという話も語られない。そんな状態で、ストイックというよりもはやちょっと危ない人と化している彼の生活を映し続ける。けっこう挑戦的な構成だ。かといって、「そんな彼だが実はとんでもない才能があって……」みたいな話にもならない。もちろん、笑いのセンスを認められて上京して……という展開はあるにせよ、成功体験が全く描かれないし、そもそも彼の作品が面白いのかどうかも伝えようとしていない。明らかに比重がそこにない。

ではこの話は何なのかと考えたとき、やはり「正しい世界で生きたい」というあの慟哭が全てを集約するということになるのだと思う。そしてこの“正しい世界”という、言ってしまえば傲慢な言葉選びが非常に切実で重要なのだ。つまりこれは、ここではない正しい世界があると信じて突き進むしかなかった人の話だということだ。

確かに、「常識的に」見ればこの主人公は普通にダメな人だろう。他人とうまくやっていこうみたいな所に全く興味がないのだから。真逆の人物として置かれているのが氏家で、主人公は彼をしょうもない奴と見下すわけだが、どう考えても氏家のような「大人」が居てこそ社会は回るわけで。だから再三述べるように、本作は「こんなに才能がある人が生きづらい社会なんて」みたいなルサンチマンに決してならない。本作が描いているのは、ただ「こういう人は居るのだ」ということでしかない。もっと言えば、「居てほしいと思う人もいるのだ」ということだろう。それは観客に委ねられるわけだが。

もちろん、観客が本作の主人公に苛立つのはある種当然だ。しかし、そういう人は意識的に社会に参加しようと努めるということをどこかでした人、もっと言えばそれが「できた人」だとは言えるだろう。そしてその中で(この主人公ほどではないにせよ)その社会に煩わしさを感じたことは少なからずあるはずなのだ。

だからといって、この主人公に共感しろとか認めてやれとかそういう主張をしている作品ではない。ただ、普段の生活で見かけたら「うわ何だこの酔っ払い……近寄らんどこ」としか思わないだろう主人公に、映画という形で2時間寄り添って眺める、という体験を提供しているのは間違いない。そしてその2時間のなかで主人公が見せる、たとえば自分の書いたネタがウケたときの(ぼーっとしてたら見逃してしまいかねない)ちょっとした微笑みとか、あるいは「売れたいけど無理なんです」と駄々をこねる子どもっぽさと切実さとがないまぜになったニュアンスとか、そういうのをどこまで拾うか。

結局、主人公の人生は(少なくともこの映画が切り取っている部分では)ああいう形で終わっていて、やはり彼の人生を「成功/失敗」みたいな観点でジャッジさせる話にはなっていない。ただ、そのなかで西寺やピンクのように「お前にはここに居てほしい」と思う人が居たのは確かなのだ。もちろん、そんな彼らもたまたま主人公に歩み寄ってくれた人でしかないとは言えるだろうし、その意味では彼らの存在が即ち救いとして描かれているとも思えない。これもまた「そういう人は居る」というだけの話でしかない。同様に、観客に対し主人公に歩み寄ることを強制してもいない。

ただ、この「そういう人」に対して、本作の観客のうち何百分の一かでも、何か自らとの共通性を見出す人が出てくるのであれば、それで充分なんじゃないかと思う。そうでなくても、単純に飛躍のある映像演出で楽しめたり、役者の演技に圧倒されたりする作品にはなっている。岡山天音は言うまでもなく凄まじいが、自分はベーコンズも凄いと思う。あのお笑いコンビのモデルが誰なのか、みたいな背景知識が全くない状態で観たのだが、そんな自分でもああオードリーだなと一発で分かってしまった。そして何より、そこに共鳴するか否かに関わらず、本作が提示する「そういう人」の実在を感じられること、それ自体が映画として豊かな体験だと思うのだ。
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