慢性眼精疲労でおます

笑いのカイブツの慢性眼精疲労でおますのレビュー・感想・評価

笑いのカイブツ(2023年製作の映画)
2.3
本人がどんな人物なのか知らないので映画に限定していうと、演技云々はさておいてストーリーが破綻してた。

(劇中の)ツチヤの人物像はシンプルだ。とてもわかりやすくデフォルメされているだけにうまくいきっこないのは明白だ。開始早々にそれを理解させられて、あとは案の定うまくいかずにただただもがくツチヤの姿を見せられた。成長も学びも何もない玉砕タイムの連続だった。

ひょっとするとそれこそがツチヤ(本人)が描きたかったことなのかもしれないけど、赤の他人の僕が見ても取り立てて面白みは感じられなかった。

常識と非常識の境界が曖昧な人がお笑いを考えるのは難しい。お笑いは常識と非常識のあわいを行ったり来たりする過程で生じるものだから。

なので(劇中の)ツチヤみたいな人がお笑いをやろうとすると、軸が非常識な方へ偏りがちになる。常識と非常識のギリギリのラインを見極めて攻めることが困難だからだ。

ツチヤ(本人)が言うところのセンス型芸人は、センスを発揮するための下準備として几帳面すぎるぐらいに常識と非常識の境界線を引いたり重箱の隅を穴が空くまで執拗に突いたりして、一般人が日常的に見慣れた光景に新しい見方を与えるようなことをする。

その場合の境界線や重箱の座標はその辺の一般人達が最大公約数的に思い浮かべるもので、だからこそ一般人にウケる筈だ。(劇中の)ツチヤみたいに常識に馴染もうとせず、独善的に振る舞う人が直接それを把握することは難しい。

それでもツチヤ(本人)のように「腸裂けとんねん」になるぐらい膨大なインプットとトレースを繰り返せば、境界線や重箱の座標を間接的に把握できたのかもしれない。そしてハガキ職人のように制約の多い方法が、アウトプットのし方として最適だったんだと思う。

しかし一皮むけば(劇中の)ツチヤはまるで常識のない人間なので、制約条件が少ないフィールドでは座標が曖昧になる。彼の考える常識は大多数の非常識であり、彼の思い描く重箱の隅はすでに多くの人に散々突かれて穴が空き、誰も関心を向けない。

そんな苦しい状況でもめげずに笑いを取ろうとするなら、おそらくは極端に非常識な方法を取ろうとする。誰もが違和感を感じることが笑いだと錯覚してしまう。

その方法も間違いではないのかもしれないけど、それは味が濃くて脂が多くて旨味をぶち込んだラーメンが正義でしょ?みたいな理屈の面白さだ。たいていの人はひとくち食べれば十分だし、人によっては臭いだけで胸やけするかもしれない。

日常も笑いのフィールドのひとつだとすると、そこにはほとんど制約条件がない。字数制限もないし、何をお題だと捉えるかも自由で、自分で唐突にお題を持ち出したって構わない。そんな場所で、(劇中の)ツチヤは面白くもなんともない異常な行動を繰り返してただただドン引きさせてくれる。

日常において(劇中の)ツチヤはただの不審者だけど、ハガキ大の窓から彼の思考を覗き、かつそれをお笑い芸人のフィルタを通して出力し直すことで、消費者が口にしても消化できるものになったんだろう。

ということが開始から間も無くしてわかるので、あとは冗長な時間が流れただけだった。