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女神の継承のhorahukiのレビュー・感想・評価

女神の継承(2021年製作の映画)
3.5
記録です。


『哭声』で神父に「医者を信じろ」と言わしめたナホンジン監督(本作は製作)らしく、今作でも巫女に医者を語らせている。今回は自身の信仰の範疇のものは治せると言ってる点が異なるけれど、その自信すらも最初から揺らいでいたことがラストでわかる。この信仰の揺らぎはベルイマン的なものに近くもあるけれど、それ以上に聖霊も悪霊も本質的には同義であるという、これまた『哭声』と同様な着地を見せるあたりが一貫しており、韓国舞台にすると焼き直しになってしまうというナホンジン監督の懸念も納得できるような作品になっていた。


以下ネタバレです!




ヴェーバーが指摘するような多神教における神の呪術的要素を考えると、本作は呪術vs呪術の頂上決戦的な意味合いが強く、内部なのか何なのかは不明ながらも相手方の呪術者も現存していることは間違いなく(盲目の老婆、境界の向こうから見つめる謎の人物、ヤリまくる儀式、一ヶ月の教化期間とそれを受けてサンティの「妙な儀式に参加させたな」発言等)、バヤン信仰vs復讐信仰といった具合で『来る』的呪術バトルの様相を呈してくる熱さは面白かった。結局はこれも『哭声』なんだけど…。

父親の死を悲しまないミン、家族を恨んでいたと語られるマックの2人を考えると父親との親子関係はほぼほぼ破綻していたのだろうし、父系継承の呪い(復讐)と母系継承の呪い(バヤン)の申し子的ミンとマックの存在から既に呪術対決の土台は出来上がっており、キリスト教に改宗した母親に特別な拒否感情は抱かず「ママ助けて」的な発言をするのも母親ノイが両系の「呪い」から一歩引いた存在であるからでしょう。ただ、キリスト教も近親相姦アウトだから、ノイに心を開いたこともそうそうなかったのだろうことは想像がつくし、父親拒否で母親ともそれほど良い関係ではないミンは復讐者側からすると非常に依代としやすい存在だったのだろうと思う。この辺りニムの「勘違い」は彼方に引き込むだけでなく、近親相姦にまで波及しているのかは少し謎だけど。

働くことに喜びを感じ、クビになった際に驚くほどに落ち込むミンは家族からも信仰からも自立した存在になりたかったのだろうし、それを妨害するものとして「実家を継いでくれないか…」的な母系側と父系側の「呪いの継承」を世俗的自立の対立概念として描いているように思える。ただ、脱呪術化を果たした一神教であるからこそ、ミンは第三の選択肢的なキリスト教には特に拒否感情までは持っていないように見える。それでもミンの態度(教会で携帯ぽちぽち)やマックとの関係(疑義あり)から、こちらもミンの本意ではない。というより両極端な狂信者ではなく文化的なものとして当たり前に生活の中に共存するようなものを無感情に享受する程度の距離感だったのかもしれない。クリスマスパレードとか喜んで参加してたし。途中でぶっ壊れてたけど、あれもその当たり前な共存に対しての狂信者側(復讐者側)からの拒否反応とも取れる。

都会で服飾で働いてた(学んでいた?)ニムも本来はミンと同じ世俗的独立心が強かったのだろうと思う。ミンと同様にリスカ跡があるのも呪術による教化の最中に起こった心的深層による抵抗だろうし、ミンに起こる現象が悉くバヤン継承と同じなため、『哭声』同様にどちらの呪術(信仰)も本質的に同等なものであるとの意味合いを強烈に感じる。バヤン側は靴に護符を仕込むことで依代(巫女)とする方法を採っているのに対して、復讐者側も幼児の靴という微妙に異なるとは言えども同様の方法で依代を作っている(サンティの儀式は靴に護符だったから復讐者側も全く同じ?)。このことから、バヤン側の祖母とか叔母とか、復讐者側がミンにしたのと同様の方法で自分の子孫を(信仰の名の下に)呪っていたのでは?それがバヤンの継承なのでは?と思う。ニムが受け継いだバヤンは自己を捨て他己に身を捧げるという完全なる呪いでしょ。

監督は、人間が犯す邪悪な行為を超越するために後半の露骨な恐怖シーンを作り上げた的なことを語っているけれど、それはそうでもしなければ本作は人間の邪悪さに物語が終始してしまうことの裏返しでもある。バヤン側も復讐者側も単に利己的に人が人を呪っているだけだもんね。

そんで結局、「この車は赤い」とはなんだったのか…だけど、本作で「赤」が出てくるのは冒頭で家々の前に吊られてる赤い衣服、ミンが父親の火葬の際に刺す傘、ミンの夢に出てくる首を切り落とす男のフンドシ、マックの木を拝むニムの背後でノイが刺している傘(ミンのものと同じ?)、そしてところどころで出てくる血。特にサンティが「食いに来い」と言って祭壇に血をばら撒くあたり、魔を誘き寄せる依代的働きを果たしていそうな気もするし、雨から身を守るための傘は魔除けのようでもあるし、家々の前に飾るのは傘と同様な意図のような気もする。

そしてミンの夢は「首を切り落とす」ところから、過去の非道な行いをしたヤサンティア家の先祖を象徴しているようにも思うし、同様に「首を切り落とす」行為はバヤン像の顛末を思い起こさせ、切り落とした主犯は復讐者側(ヤサンティアに切り落とされた側)であることは間違いない。そういった事柄を考慮すると、「赤」には、魔を誘き寄せるための依代-魔除け、殺人者-復讐者のアンビバレントを同義なものとして象徴させているように思う。「この車は赤い」を貼ったマニは魔除けで貼ったんだろうけど、それを見てニヤッと笑ったサンティは依代の意味で捉えて儀式の成功を確信していたように思う。車に乗っていたのはミンに扮して依代の役割を果たす予定のノイなわけだし。

そしてミンのクローゼットとかにあったウコンをニムは魔除けと呼んでいるけれど、あれは間違いなく魔を誘き寄せる依代として復讐者側が持ち込んだものだろうし、その点もまた依代-魔除けのアンビバレントが徹底されている。魔除けは内側に神(バヤン)がいて外部からの魔の侵入を防ぐためのもので、依代は神(復讐心)を内部に招くためのものであるわけだし、内部に「神」を宿すという点で両者は全く同じ。神として信じてる対象が違うだけ。

ニムとミンという媒介者を通して、ミンの神はしっかりと現れて仕事をしていたのに対しニムの神は全く仕事をしていなかったことがニムの信仰の揺らぎに繋がるわけだけど、ここは結局実態があるかどうか(もしくは実態を認識しているかどうか)の違いだろうね。ミン側の復讐神はそれの元凶が実態として存在していたのに対し、バヤンは先祖代々崇めてきただけで起源等全くわからないという実態の希薄なもの。つまりはミン側は真実なる神への信仰だったのに対し、ニム側は単なる偶像崇拝に過ぎなかったのでしょう。もしかしたら実態はあったのだとしても神話レベルで現世と隔絶した目的も何もかも不明なバヤンに対して、現世と隣り合わせの起源を持ち目的も明確な復讐神のどちらが対象者に対して強い影響力を持てるか…は明白。バヤンはどの時代の神なのかは不明だけど、血縁集団メインの民族社会の神だったとしたら同害報復、復讐法的な価値観を持っていた神なのかもしれないし、その義務に従ったが故に現れなかったのかもしれない。

信仰の呪いが嫌だからミンは世俗的自立を夢見てたわけだけど、過去には世俗的自立の先にヤサンティアでの奴隷虐殺があったわけで、それがまた呪術という信仰へと復讐者たちを駆り立てているという円環構造も面白い。

まあでもそんなに面白くはなかったよね。本編?が始まるまでのドキュメンタリーチックな冒頭は凄く良くて、空撮多めで神的視点とエキゾチックな幻想的風景が神の存在を実感を持って納得させるのに役立っていたし、日常に存在する信仰と人々の暮らしのボーダーレスな世界観はリアリティがあった。電灯の明かりを前にしてニムが裁縫仕事を終えるとことか信仰と世俗を含め、多重に意味合いと感情を連ねたキマりまくったショットだったし、何もかも引き込まれたのだけど、葬儀あたりからいきなり雰囲気が変わってしまい、次第に『ブレアウィッチプロジェクト』→『パラノーマルアクティビティ』化してしまうのは凡庸。カメラマン以外の視点を奪うことで登場人物の感情に寄り添う必要がなくなり、背後の関係性も一才描かずに構成できるという作品の趣旨をうまく反映した手法ではあると思うのだけど、それを考慮したとしてもモキュメンタリーがノイズになってしまうシーンが多すぎたと思う。カメラマンも作品の登場人物として…みたいなこと語ってたけど、時々帳尻合わせしているだけのように感じた。むしろ登場人物としてその場にいることが凄く違和感。


書き殴ってるだけなのでコメント等スルーしてください🙏
horahuki

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