ルッコラ

アステロイド・シティのルッコラのレビュー・感想・評価

アステロイド・シティ(2023年製作の映画)
4.5
公開日に見に行ったけど全く咀嚼できなくて。
先日改めて鑑賞。
「映像が良かった」「ウェスの世界観が最高」は勿論そうなんだけど、それで終わりたくない。自分なりに答えを出したい感覚が強い。
色々な人の感想や解説を片っ端から読んでみたけど今一つ納得できる答えにたどり着けなかったんだけど。
ひとまず答えらしきものにたどり着けた感覚はある。



舞台背景を描写することが監督にとっては大切。
緻密に作り上げられたアステロイドシティという箱庭。
その箱庭を観察することがひとつの楽しみ。
それと、テレビ制作の裏側への愛。直後の短編集にも似たようなものを感じるし。本当に愛なんだと思う。
そういった。例えば「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」とか「バットマン・リターンズ」とかも話よりも世界が大切だし。そういう感じ。


なので情報量は多く監督にとっては宝石のような大切なんだと思う。ただそれら全てが視聴者が物語を追う上で大切なわけではない。
どちらかというと、世界観に厚みを持たせる、説得力をだすための小道具といっていいのかも。(前述の通りそれもこの映画の主題のひとつではあるけど)
構成が複雑かつ情報が多いので目眩ましのようになってしまっている部分もある。
故に主題がわかりづらい。
自分は読解力がよわいので、そうやってそぎ落としてみていかないと答えにたどり着けない気がする。





改めて見てみて感じるのは色んな人が言う
「タイミングの難しさ」
「流されるままならなさ」

確かにこれらが主題なのかなと思う。


とても印象的な電話の場面。
母の死を伝えるタイミング。
バスを逃すバンド。
子供に流されて結局遺灰を埋めるところ。
ラストシーンもみんなに置いていかれて帰るタイミングが遅れる。








引用ーーーーーーーーーーーーーーー

叫びを文字通りに受け止めると、目覚めの演技のためには実際眠らなければならないという意味となる。「なりきる」ことを追究する(単純化された)メソッド演技の理念表明に聞こえる。他方、目覚めという新たなフェーズへ進むには眠りに身を委ね、主体性や意識を手放さなければならないとも聞こえる。これはシューベルトが伝えた演技論や、オーギーの描かれ方にも通じるものであり、劇作品《アステロイド・シティ》のテレビ的な在り方へとつながる。

「眠らなければ目覚めることもない」というチャントは、いかにもメソッド演技的な題目を唱えているようで、テレビに相応しい演じる身体とは何かを言い当ててもいる。

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この引用は回りくどいけどしっくりくる。

一方でオーギーの職業がカメラマンなのも面白い。
カメラこそタイミングがズレるが許されない。ベストなタイミングしか許されない。瞬間を仕事にしている。
皮肉なのかな?


これに対しても時間や瞬間を止めて統御する職業なのに、統御できないものに惑わされる皮肉というのは納得。

身を委ねて結果を待つのもいいんじゃない?
という許しにも近いものを感じる。

そういう意味では作中に何度もでる現像という行為は身をゆだねて結果を待つ時間の比喩ともとれるのかな。(実際には現像も膨大な作業だけど)


それとあいまいになる演技と現実の境界線とそこから生まれる感動みたいなものもテーマなのかな。
その導入としてのヤケド。このヤケドに関しては序盤にも触れられているので大事な要素なのは間違いない。
ヤケドが原因で役と役者の境界線がわからなくなっていくけど、演出家や脚本家すらもそれをわかっていない。
(脚本家自体もテーマは「永遠」だといいながら曖昧な答えをかえすし)
で、だからと言ってこの作品の中に答えがあるわけではない。
多分それでいいと思ってるし、役者を通してその瞬間に生まれる演技にこそ力と意味が宿るのかなと。
今思えばアイスのくだりのときに「その解釈良いね。セリフで言わせようか。いや、野暮だな」という部分とかにそれが感じられる。


やっぱり感動のピークって、舞台の外で妻役の語るカットされたセリフの部分だと思うんだけど。
その感動にもっていく手段がすごくて。観客は劇中劇のアステロイドシティのオーギーとその家族に感情移入してみているんだけど、劇中で母はなくなっているので、絶対にもう会うことはできない。
その奇跡の瞬間をこういう形でみせる想像力。普通なら夢の中でとか魔法でとか、過去に書かれた手紙とかそういう手段になるところを、うるさいほどの入れ子構造でもってうみだす。構造はこのためにあるといっても過言ではないのかも。





2023/09/01 20:51
アステロイド・シティ(2023年製作の映画)
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以下引用


トム・ハンクス、スカーレット・ヨハンソン、ジェイソン・シュワルツマンほか豪華スターが大集結する、ウェス・アンダーソン監督最新作『アステロイド・シティ』。人々が豊かな日々を謳歌し、アメリカがもっとも輝いていたと言われる1950年代を舞台にした本作は、モノクロで描かれる同時代のテレビ番組と、カラフルに描かれる番組内の劇《アステロイド・シティ》が交差する、入り組んだ構成を持つ作品だ。劇《アステロイド・シティ》では、人口わずか87人の砂漠の街アステロイド・シティで開かれるジュニア宇宙科学賞の祭典に集まった人々が、群像劇を繰り広げる。
本稿では、舞台、映画、ラジオで上演されるアメリカン・ミュージカルの劇作法について研究する辻󠄀佐保子が、舞台となる1950年代アメリカの状況、とくに演劇界出身者が多く活躍した「テレビ」をめぐるメディア環境や演技の在り方を軸に本作を論じる。【Tokyo Art Beat】
※作品の内容および結末に触れる記述が含まれています。

目次
本作の構造とテレビ番組という大きな枠
1955年、テレビの時代
戦後アメリカの開拓・開発ムード
テレビとしての砂漠の出来事
身を委ねること、次へ進むこと
眠ること、演じること
目覚めたら、また次へ
本作の構造とテレビ番組という大きな枠
ウェス・アンダーソン映画はしばしば、枠物語の構造を有している。『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』ではテネンバウムズ家についての書籍が繰られる。『グランド・ブダペスト・ホテル』は、冒頭で少女が読む小説《グランド・ブダペスト・ホテル》の中で作家は若かりし頃を回想し、その思い出の中で作家はホテル・オーナーの語る物語に耳を傾けるというように枠が多重である。
アンダーソンの新作『アステロイド・シティ』でも枠が複数設けられ、とりわけテレビ番組は作品全体を包括する。本作の構造を見ていこう。
まず、モノクロのテレビ番組が始まる。時は1955年。番組冒頭でブライアン・クランストン演じる司会者は、演劇界注目の新作《アステロイド・シティ》の制作過程が放送されることを視聴者(そして映画の観客)に伝える。
前置きの後に、劇《アステロイド・シティ》の内幕がやはりモノクロで展開する。テネシー・ウィリアムズを彷彿とさせる劇作家コンラッド・アープ(エドワード・ノートン)の新作を、エリア・カザンを想起させる演出家シューベルト・グリーン(エイドリアン・ブロディ)が引き受け、リー・ストラスバーグとオーバーラップする演技講師ソルツバーグ・カイテル(ウィレム・デフォー)の下で研鑽を積む気鋭の俳優たちが参加する過程が描かれる。

『アステロイド・シティ』 © 2022 Pop. 87 Productions LLC
さらに映画は、戯曲《アステロイド・シティ》に描かれた世界を、こちらはカラフルに描き出す。1955年の砂漠の町アステロイド・シティを舞台に、若き科学者とその家族、軍関係者や修学旅行の一行、旅人、さらには宇宙人が集うことで起こる大騒ぎが、アンダーソンらしいとぼけたユーモアとともに進む。
映画の本編と言えるのは、戯曲《アステロイド・シティ》の世界が繰り広げられるパートであろう。しかし、司会者が次のように述べていることは聞き落とすべきではない。
「《アステロイド・シティ》は存在しません。この番組のために作られた架空のドラマです。登場人物は架空の人物であり、物語はフィクションであり、ここで起こる出来事はつくられたものです。」
つまり映画『アステロイド・シティ』は、架空の劇作品や、それを制作・上演する架空の過程が、テレビ番組という大きな枠の中に納まっているのだ。

1955年、テレビの時代
なぜテレビなのか。ひとつには、1955年という設定が関わっているだろう。
1955年、なんとも絶妙な時期である。

戦後、アメリカでテレビ放送が本格化する。テレビ受像機購入数は1950年代にかけて右肩あがりで、1955年は約6割の世帯で少なくとも1台はテレビがあった。テレビは演劇や映画、ラジオといった既存の媒体に対して脅威とも刺激ともなった。とくに当時演劇界で席巻していたメソッド演技法(*)は、小さなテレビ受像機と小さなスタジオに相応しいドラマのスタイルの確立に寄与した。

*──アメリカの演出家・演技指導者であるリー・ストラスバーグらによって、1940年代にニューヨークの演劇で確立・体系化された演技法・演劇理論。ロシアの演出家コンスタンチン・スタニスラフスキーによって提唱されたスタニスラフスキー・システムの原則と方式に基づき、役柄の内面に注目し、感情を追体験することなどによって、それ以前の誇張された演技より自然でリアリステックな表現を行うことが目指された。

『アステロイド・シティ』 © 2022 Pop. 87 Productions LLC
さらに1955年はテレビ自体が変わりつつある時代だった。東海岸拠点の生放送中心の体制から、西海岸拠点の録画放送中心の体制へ1950年代の間にテレビ業界は変容する。生放送のドラマやバラエティ番組は下火となり、シットコムや連続ドラマが席巻する。
映画『アステロイド・シティ』は、テレビがラジオ・演劇・映画、ライブと録画、東海岸と西海岸が交錯する場であった時代が背景となっている。だが、本作におけるテレビというギミックは、時代設定のみに関わるものなのだろうか。確かに、砂漠の町で繰り広げられる狂騒が描かれる《アステロイド・シティ》では、テレビとの関係がわかりやすく示されているわけではない。それでも、テレビのために作られた架空の演劇作品には、テレビ的なレファレンスやモチーフが散りばめられ、テレビ的な構成で成立している。


『アステロイド・シティ』 © 2022 Pop. 87 Productions LLC
戦後アメリカの開拓・開発ムード
まず舞台となる砂漠に、テレビとの間接的なつながりを見出すことができる。
隕石落下の衝撃をいまに伝える巨大なクレーター、風雨にさらされた巨岩や巨石、すっくと立つサボテン、ユニークな歩行を見せるトリ……。作中の砂漠からは、年月のなかで独特の生態系や環境が築かれてきたことが窺える。
しかし、のどかなばかりではない。土地の権利は自動販売機でカジュアルに売買され(アメリカ史に思いを馳せれば、そもそも先住民から土地を剥奪し彼らを虐殺した土地であろうことは推察される)、軍が統括する土地では巨大パラボラアンテナが天空に向かって立つ。詳細不明のカーチェイスが断続的に起こり、核実験の雲が遠くに、だが大きく立ち上る。戦後アメリカを駆動する大地と宇宙双方への開拓・開発ムード、そして未知なるものや異質なるものへのパラノイアが、アステロイド・シティにも浸透していることが窺える(だからこそ、きのこ雲がゾッとするほどあっさり描かれていると言える)。そして経済的・軍事的に吸い尽くされ、砂漠が遠からぬうちに荒廃する可能性もうっすら予感させる。


『アステロイド・シティ』 © 2022 Pop. 87 Productions LLC
この荒れ地という近未来像は、テレビの近未来を想起させる。1961年、連邦通信委員会委員長に就任したニュートン・ミノーは、テレビを「広大なる荒れ地」(“Vast Wasteland”) と表現した。視聴率と広告効果を追い求めるあまり、番組内容の質が置き去りとなり、視聴覚への刺激が過多となっている状況への懸念表明が主眼である。テレビ研究ではしばしば、1960年代アメリカのテレビ業界を象徴するフレーズとして「広大なる荒れ地」は用いられるが、スピーチが1961年なことを思えば、ミノーが嘆いたテレビの荒廃的状況は1950年代からすでに始まっていたと推察できる。
テレビという補助線を引いてみると、砂漠の町アステロイド・シティが帯びる不穏さは、アメリカ社会の抱える政治的・経済的・軍事的不穏さだけでなく、テレビの抱える不穏さとも結びついている。

テレビとしての砂漠の出来事
砂漠の町がテレビ的というのは、荒れ地という未来像と結びつくだけではない。砂漠で起こる出来事も、テレビ的に描かれていく。
町では様々な出来事が同時多発的に起こるが、脈絡に欠く場合も少なくなく、大方はさしたる解決も発展もないまま次の場面へ流れる。たとえばジュニア科学者の成果を称える授賞式に、前触れなく宇宙人が到来して隕石を持ち去るのだが、宇宙人の目的は描かれない。宇宙人にとっては理由があるのかもしれないが、地球人にとっては虚をつかれる出来事である。軍指揮下の封鎖がとうとう解除される前夜にも、再び宇宙人が予告なく訪れて隕石を戻し去っていく。隕石には記号が彫られているが解読は困難で、やはり目的や理由は不明である。あわや再び隔離措置かと思われるが、翌日には何事もなかったように町は日常に戻り、授賞式出席者らは帰路についている。

『アステロイド・シティ』 © 2022 Pop. 87 Productions LLC
流されるまま運ばれるという構成は、テレビとの近接性を感じさせる。レイモンド・ウィリアムズの言うところの「フロー」を使用することが適切かはさておき、アメリカのテレビ放送では決定的なピリオドが打たれないまま進行していくことは常態である。中途半端でも、脈絡があろうとなかろうと、次のコーナー、次のCM、次の番組へ。いつの間にか終わり、いつの間にか次へ。種々の出来事がなし崩しに進行する《アステロイド・シティ》の世界は、ひとつの大きなテレビである。
身を委ねること、次へ進むこと
テレビのように事物が流れる世界で、子供たちは科学技術を駆使して状況の打破を試みる。天文学者ヒッケンルーパー(ティルダ・スウィントン)はジュニア科学者たちを鼓舞する。保護者たちも、子供たちの開発したマシンを用いて軍に抵抗を示す。しかし、主体的に行動するキャラクターばかりではない。むしろ、ままならない流れに身を委ねる姿が描かれる者もいる。ジュニア科学者ウッドロウ(ジェイク・ライアン)の保護者、オーギー・スティーンベック(ジェイソン・シュワルツマン)である。

『アステロイド・シティ』 © 2022 Pop. 87 Productions LLC
戦場記者オーギーはカメラを手放さず、アステロイド・シティでもシャッターを切る。きのこ雲、女優ミッジ・キャンベル(スカーレット・ヨハンソン)と娘ダイナ(グレイス・エドワーズ)の横顔、そしてポーズをとる宇宙人…。到着時のオーギーを悩ませているのは、3週間前に妻が亡くなったことを、4人の子供たちにいつどのように伝えるかである。オーギーの人物像を整理すると、写真家としても夫としても保護者としても、どのようなタイミングで何を為すべきか統御を試みていると言える。

しかし、オーギーは統御の手綱を徐々に緩める。劇序盤、自動車が大破し、義父スタンリーへ迎えに来るよう電話をかけたオーギーは、子供たちに母親の死を伝えるよう咎められる。オーギーは「ちょうど良いタイミングなんてないですよ」とぼやくが、スタンリー(トム・ハンクス)から「タイミングはいつだって悪い」と反論される。するとオーギーは、電話を切るや否や子供たちに妻の病死を報告する。スタンリーにたしなめられてもなお、オーギーは秘め続けることはできただろう。少なくともジュニア宇宙科学者の式典が終わるまでは、あるいはスタンリーがアステロイド・シティに到着するまでは。しかしオーギーは、子供たちからしてみれば唐突に、3週間前に死去した妻の遺灰をタッパーウェアに入れて持ち歩いていることを告白する。一連のオーギーの行動からは、彼が統御を一瞬保留し、スタンリーに叱咤された勢いに身を委ねているように見える。


『アステロイド・シティ』 © 2022 Pop. 87 Productions LLC
ほかにも、隣のコテージに滞在するミッジから、参考に怒りを見せるよう言われたオーギーは、コテージに吊るした暗室用ランプを破壊する。他者からの求めに流されるように統御を一瞬手放し、オーギーは過激な行動へ飛躍してしまう。
こうした飛躍の際たるものは、一度目の宇宙人到来後に負う火傷である。軍の命令で人びとはアステロイド・シティに留め置かれる。オーギーはミッジと交流を深めつつあり、すでに夜をともにしているが、決定的な関係の変化には至っていない。何もかもが宙ぶらりんの状況で、ミッジと窓越しに会話していたオーギーは、左手を調理用ヒーターに当ててしまう。オーギーの行動は、ミッジにとってもオーギーにとっても唐突なものである。
オーギーの突飛な行動は宇宙人到来ほどの騒ぎは招かない。ひとり抱えこんでいた状態から家族やミッジといった他者とのつながりを結び直す契機となっているものの、ドラマティックな和解や決裂は生じない。だからこそテレビ的なのである。流れに身を委ねることで次のフェーズへ運ばれるという機序において、オーギーはテレビに結びついている。

『アステロイド・シティ』 © 2022 Pop. 87 Productions LLC
眠ること、演じること
映画『アステロイド・シティ』は、テレビ番組の中でバックステージと劇作品が包摂されている。両者は基本的に切り離されているが、映画が進むにつれてその境界が曖昧になっていく瞬間が断続的に生じる。そのうちのひとつが、オーギー役の俳優ジョーンズ・ホール(ジェイソン・シュワルツマン)が劇中で混乱を吐露する場面である。
ジェームズ・ディーンをはじめ1950年代に頭角を現した俳優たちを投影したと思しきジョーンズは、キャラクターの背景や行動原理を詰める演技スタイルを採用する。そんな彼にしたら、オーギーの行動は役作りのヒントとなり難い。二度目の宇宙人到来の最中、とうとうジョーンズは「なぜ火傷したかわからない」とこぼし、バックステージへ戻り演出家シューベルトに詰め寄ってしまう。ここから、アステロイド・シティ到着時のオーギーのようにジョーンズも統御の手綱をぎゅっと握り、どのようなキャラクターをどのように表現するかコントロールを試みていることがわかる。ここにきてテレビと演劇との亀裂が浮かび上がる。 
しかしシューベルトはジョーンズに、そのまま演じればオーギーになると諭す。俳優が理由や背景を全て把握している必要はなく、演技プランを細かく詰める必要もなく、戯曲の流れに身を任せるように、という意味だと解釈できる。シューベルトはカザンを想起させる人物だが、シューベルトの演技論はカザンのそれとは異なるように思われる。むしろ、オーギーがそうであったようにジョーンズにも手放すよう促している。
シューベルトの演技論は、劇《アステロイド・シティ》でも基盤となっている。このことは、俳優と演技講師、演出家、作家がテーマやヴィジョンを討論する終盤の場面で示唆される。討論の中で眠りや目覚めの演技に話が及ぶと、俳優たちは一斉に眠りの演技を披露する。体勢や表情は弛緩しているが、コントロールされた弛緩であることは明らかである(夢遊病の演技をする者もいる)。講師ソルツバーグはシューベルトに、眠る場面を演じた経験があるかを問う。シューベルトは一度本当に眠り、出番の前に目覚めて事なきを得たと語る。すると俳優たちは一斉に演技から戻り「眠らなければ目覚めることもない」(あるいは「目覚めるためには眠らなければならない」)というチャントを叫び続ける。
叫びを文字通りに受け止めると、目覚めの演技のためには実際眠らなければならないという意味となる。「なりきる」ことを追究する(単純化された)メソッド演技の理念表明に聞こえる。他方、目覚めという新たなフェーズへ進むには眠りに身を委ね、主体性や意識を手放さなければならないとも聞こえる。これはシューベルトが伝えた演技論や、オーギーの描かれ方にも通じるものであり、劇作品《アステロイド・シティ》のテレビ的な在り方へとつながる。

「眠らなければ目覚めることもない」というチャントは、いかにもメソッド演技的な題目を唱えているようで、テレビに相応しい演じる身体とは何かを言い当ててもいる。


『アステロイド・シティ』 © 2022 Pop. 87 Productions LLC
目覚めたら、また次へ
映画『アステロイド・シティ』は、演劇《アステロイド・シティ》のエピローグで締めくくられる。二度目の宇宙人来訪から一夜が明け、オーギーは目を覚ます。町は閑散とし、他の者たちは去ったことが知らされる。宇宙人が再びやってきたからといって、特に世界は変わり果てていない。しかし息子ウッドロウは奨学金をいつの間にか受けとり、すでに次の研究計画を練っている。ミッジの私書箱のアドレスをオーギーは受け取り、つながりが途切れていないこと、さらなる変化の可能性が残されていることを知る。眠り、目覚め、気づいたら進んでいる。そのことをオーギーたちは静かに受け止め、俳優ジョーンズが顔を覗かせることはもはやない。
オーギーと子供たちはスタンリーの車に乗り、砂漠の町を後にする。たとえこれからままならないことに見舞われようとも、彼らは、オーギーは、流れに身を任せながらどうにか乗り切るだろう。そんな予感に満ちた結末である。
身を委ね、手放し、それにより先へ運ばれていくのを受け入れる。それはテレビという仕掛けが彼らに授けた希望である。







2023年6月に先行してアメリカで公開されたウェス・アンダーソン監督最新作の『アステロイド・シティ』。映画作家ポール・シュレイダーをはじめ、本作をウェス・アンダーソンの最高傑作と称賛する声が相次いでいる。

『アステロイド・シティ』は、フロンティア精神で映画のデザインを開拓していく映画であるのと同時に、最終列車に間に合わなかった感情の行方を追う傑作だ。今年はウェス・アンダーソンの新作が2本続けて発表される年でもある。エイドリアン・ブロディやティルダ・スウィントン、エドワード・ノートンといった常連組に加え、『犬ヶ島』の声の出演以来のスカーレット・ヨハンソン、そしてトム・ハンクスやマヤ・ホーク、マーゴット・ロビー、マット・ディロンたち新規組を加えたウェス・アンダーソンの新作は、ウェス・アンダーソンという映画作家に期待されるデザインの実験性に応えつつ、これまで以上のエモーションの深度と大陸的で歴史的な広がりを射程に入れている。

『アステロイド・シティ』は、ジェイソン・シュワルツマンのために書いた映画だとウェス・アンダーソンは語っている。たしかに本作の主人公には、『天才マックスの世界』の少年マックス・フィッシャーのその後の姿を重ね合わせることができる。ウェス・アンダーソンのフィルモグラフィーでもっとも自己言及的だったあの作品。マックスが母親と死別したように、本作の主人公オーギーも妻と死別している。

いよいよ日本で公開となった『アステロイド・シティ』。稀代の映画作家と共に同時代の冒険ができることを、心から祝福したい。


縦軸と横軸の開拓者
「アステロイド・シティは存在しない」

マリリン・モンローとエリザベス・テイラーのマッシュアップのようなルックスのヒロイン、ミッジ・キャンベル(スカーレット・ヨハンソン)。キャラクターの着想を得る際、ウェス・アンダーソンはいつも2つ以上のイメージを掛け合わせている。ミッジ・キャンベルというキャラクターは、マリリン・モンローの晩年の出演作『荒馬と女』(1961)の舞台裏を撮影したイヴ・アーノルドによるスチール写真のイメージを参照している。マリリン・モンローと親密な関係を築いた数少ない写真家の一人イヴ・アーノルドは、ウェス・アンダーソンのパートナー、ジュマン・マルーフの母親と親しい間柄だったという。アルフレッド・ヒッチコック作品におけるブロンドヘアのキム・ノヴァクをはじめ、ウェス・アンダーソンは『アステロイド・シティ』のミッジ・キャンベルというキャラクターに複数のイメージを重ねていく。インスピレーション元のイメージは、いつの間にかウェス・アンダーソン映画のキャラクターとしか言いようのない輪郭に収まっていく。私たちはキャラクターそれぞれの“顔”によって、ウェス・アンダーソンの映画と強い結びつきを獲得する。

ウェス・アンダーソンは、影響を受けた多くの映画作品をいつも喜んで明かしている。しかしそれらの作品群にあたってみたところで、ウェス・アンダーソン作品のコアに触れるのは難しい。前作『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』(2021)に明らかなように、様々な資料の蒐集家でもあるウェス・アンダーソンは、複数のイメージを重ね合わせていくことで、参照元のイメージの跡形を消していく傾向がある(ウェス・アンダーソンは、これまでの人生で書籍類を処分したことが一度もないという)。異色の西部劇『日本人の勲章』(1955)の風景が参照された『アステロイド・シティ』においては、最終的に岩肌の色のイメージだけが残ったといえるだろう。アメリカの原風景と言われるモニュメントバレー。赤味がかった独特な岩肌の色。ウェス・アンダーソンと仲間たちは、ロケーションを撮影するために向かうのではなく、その土地にセットを作るために旅をする。今回は架空の町アステロイド・シティを作るために、スペインへ飛んでいる。そして出来上がった映画の風景は、ウェス・アンダーソンの風景としか言いようのないイメージへと変貌を遂げている。私たちは“風景”によって、ウェス・アンダーソンの映画と強い結びつきを獲得する。

しかしウェス・アンダーソン作品とオーディエンスの強い結びつきは、スクリーンと向かい合っている間だけに許された幻として存在する。『ムーンライズ・キングダム』(2012)の少年少女たちによる楽園が「ディス・イズ・アワー・ランド!」と叫ぶ、その瞬間にだけ立ち現れた幻の王国だったように。または『グランド・ブダペスト・ホテル』(2014)の手品師のようなムッシュ・グスタヴ(レイフ・ファインズ)、そして天使のような少女アガサ(シアーシャ・ローナン)の儚さを思い出してもいいだろう。『アステロイド・シティ』の冒頭でテレビの司会者によって語られる「アステロイド・シティは存在しない」という台詞は、これまでのウェス・アンダーソン作品の“種明かし”のようであり、宣言のように機能している。あらかじめ幻であることから物語を始める。これから幻の土地を開拓していく。ここにはウェス・アンダーソンの本作に賭ける決意が読み取れる。

『アステロイド・シティ』は、大陸を横断する貨物列車から始まる。アメリカの東部と西部をつなぐ列車。1955年。明るい未来を提示するようなミッドセンチュリー建築と第二次世界大戦のトラウマや核実験への恐怖が並立する時代。そしてジェームス・ディーンが事故死した年。ジェームス・ディーンは、本作の劇場シーンのモチーフになっているアクターズスタジオを代表する俳優だ。マリリン・モンローも1955年にアクターズスタジオの門戸を叩いている。東部=ニューヨークで創作される西部(アステロイド・シティ)=開拓地の物語。ウェス・アンダーソンは、この時代のアメリカが大陸という横軸だけでなく、宇宙という縦軸に新たな開拓地を発見したことを描いている。

かつて隕石の落ちたこの町にアメリカ中から天才少年少女たちが集められる。スタンリー(トム・ハンクス)は第二次世界大戦のトラウマのせいか、いつも腰に銃を巻いている。スタンリーの息子オーギー・スタンベック(ジェイソン・シュワルツマン)は、最近妻を亡くした戦争カメラマンだ。『天才マックスの世界』(1998)で早熟の風変わりな天才少年マックス・フィッシャーを演じたジェイソン・シュワルツマンが、ここでは無力な大人の役を演じている。そしてオーギーの息子ウッドロウは、この町に集められた天才少年の一人だ。親子の結びつきに、“かつての天才”、あるいは“恐るべき子供(アンファン・テリブル)”というテーマが浮かび上がる。子供時代に学校で演劇を創作していたウェス・アンダーソンの自己言及性が、オーギー・スタンベック=ジェイソン・シュワルツマンの輪郭に滲んでいる


パフォーマンスと人生
「マリリン・モンローのスチール写真が興味深いのは、カメラマンが自分の個性やスタイルでどのように撮ったとしても、そこにいるのはいつも彼女でしかないということです」(イヴ・アーノルド / Eve Arnold 「Marilyn Monroe: An Appreciation」)

ミッジとオーギーは、アステロイド・シティのダイナーで出会う。ミッジの娘ダイナもこの町に集められた天才少女の一人だ。横並びのカウンターの端と端に座る距離感が素晴らしい。オーギーはワッフルを食べるミッジとダイナに無許可でシャッターを切り始める。写真家のオーギーが被写体のミッジをとらえる距離感は、『アステロイド・シティ』という映画を豊かにしている。触れられそうなほど近くにいるのに、ミッジはカメラのファインダーやフレームの中にしか存在できないかのようなのだ。そしてミッジはいつも完璧な構図で収まっている。独学で映画スターのポージングを学び、人体の動きに関する本を読み、いわばカメラに関する“研究者”のようだったマリリン・モンローのように。ミッジは、ほとんど無意識のように完璧な構図に収まっていく。そしてミッジのリハーサル(スカーレット・ヨハンソンによる美しいパントマイム演技!)を窓枠越しに手伝うオーギーには、まるでスクリーンに投影されるスターを見ているかのような趣がある。


ミッジ・キャンベルのインスピレーション元となった、マリリン・モンローをとらえたイヴ・アーノルドの写真集には、『荒馬と女』の舞台裏で人生の不完全な問題を生きるマリリン・モンローの孤独と、被写体としてパブリックイメージに生きるマリリン・モンローのペルソナが収められている。『荒馬と女』の一連のスチール写真は、戦場・報道カメラマンとして知られるロバート・キャパたちが創設した写真家集団マグナム・フォトとの専属契約によって撮られたという点で、『アステロイド・シティ』のオーギーのイメージとつながっている。ウェス・アンダーソンの言葉でいうところの「傷つきやすい才能の持ち主」マリリン・モンロー。映画作家ジョナス・メカスは『荒馬と女』のマリリン・モンローを次のような言葉で賞賛している。

「男たちは世界を捨てた。この映画で真実を語り、告発し、裁き、明らかにするのはマリリン・モンローである」「Village Voice」February 9,1961 [MARILYN MONROE AND THE LOVELESS WORLD by Jonas Mekas]

脚本を手掛けた当時の夫アーサー・ミラーがマリリン・モンローの実人生を作り直したのかもしれない。それ以上にマリリン・モンローは、本当の自分をこの映画に曝け出したのかもしれない。『荒馬と女』は、マリリン・モンローにとって事実上最後の作品となってしまう。

ウェス・アンダーソンは『フレンチ・ディスパッチ』でレア・セドゥのイメージにフランス映画への愛を捧げたように、ミッジ・キャンベル=スカーレット・ヨハンソンのイメージに50年代アメリカ映画への愛を捧げている。ミッジはオーギーに演技と人生に関する弱音を漏らす。「演じたことはあるけど、経験がないの」。そして劇作家による物語を演じる俳優と俳優の実人生が入れ子状に描かれる『アステロイド・シティ』は、演技と人生、芸術と人生に関する映画だ。

自身の体験の中からエモーションを引き出すことや徹底的なリサーチによってキャラクターの内面と同化することをアクターズスタジオはメソッド演技法で唱えている。劇中劇に配役された俳優たちには、「演技は人生(経験)を超えていくものなのか?」という問いがある。または、生まれる時代を間違えたのかもしれないという疑念。あるいは、すべてに間に合わなかったと感じるときの無力感。演技と人生はすれ違いを続ける。感情が後から追いつくこともある。しかし追いついたときには、もう手遅れになっているかもしれない。私たちの人生と同じように。トム・ハンクスの演じるスタンリーは言う。「タイミングは悪いものだ」。そう、多くの場合、人生のタイミングは合わない。



未知との遭遇
宇宙という縦軸への開拓は希望と共に恐怖でもある。人は未知なるものに遭遇したとき、自分たちの世界が脅かされることをまず恐れるものなのかもしれない。『アステロイド・シティ』は、宇宙人との遭遇によって状況が変わっていく。サイレント映画の巨匠ルイ・フイヤードの描く吸血ギャング団、イルマ・ヴェップのようにも見える宇宙人の登場シーンは、ひたすら楽しい。『未知との遭遇』(1977)。ウェス・アンダーソン映画のプロダクション・デザインを手掛けるアダム・ストックハウゼンは、近年のスティーヴン・スピルバーグの映画を手掛けているというつながりがある。そして武装化する大人たちを出し抜いて天才少年少女たち=ジュニア・スターゲイザーたちが活躍を始める。

ウェス・アンダーソンの映画に登場する子供たちは大人びている。むしろ大人たちの方が子供っぽい行動だらけだ。ウェス・アンダーソンという映画作家を稀代のシネマ・スタイリストと認識するならば、コントロールの難しい子供が多く登場するのは矛盾していることに思われる。しかしウェス・アンダーソンは、むしろ積極的に子供を登場させている。ほとんど子供を演出することに執着していると言っても過言ではない。舞台裏のスチール写真では、背の高いウェス・アンダーソンが子供たちと同じ目線の高さで語りかけている姿をよく目にする。ウェス・アンダーソンには、子供という未知なる才能が自分の映画に何をもたらしてくれるか、その脅威を期待しているようなところがある。なによりウェス・アンダーソンの映画にとって、子供たちは大人たちを脅かす存在であり続けている。

そもそもウェス・アンダーソンのすべての映画は、予期せぬ事態が起こることを期待する行き当たりばったりの冒険映画だ。ミッジの娘ダイナは、地球より宇宙に自分の居場所を見つけている。ダイナの言葉を聞いたウッドロウ少年は、生まれて初めて自分と同じ種類の人間を発見したような喜びを覚える。宇宙人の発見は、誰の何の問題を解決してくれるものでもない。そのことが分かっている同志が手を取り合い、ウェス・アンダーソンの映画史上最大ともいえるカタルシスをスクリーンにもたらす。そこには自ら創造したアステロイド・シティという世界を破局させることの美しさがある。

「あなたが映画を作るのではなく、映画があなたを作るのです」と語ったのはジャン=リュック・ゴダールだが、この言葉は『アステロイド・シティ』という作品に当てはまる。映画という言葉を芸術、演技、または愛という言葉に置き換えることにウェス・アンダーソンの夢想はある。演技が私たちを作る。演技は私たちに先行する。愛が私たちを作る。愛は私たちに先行する。『アステロイド・シティ』は乗り遅れた列車が、それでも前に進んでいくことを肯定する。愛の大きさやスピードに私たちの身体が追いつけないことを受け入れてくれる、とびきりの傑作なのだ。






アステロイド・シティのベビーパウダー山崎のレビュー・感想・評価
2023/09/01 16:46
アステロイド・シティ(2023年製作の映画)
3.5
その代表作(演劇)を上演する劇作家を語るテレビの特別番組を映画として見せていく三重構造ぐらいになっていて、もう入り組み方が手に負えない。これもウェス・アンダーソンの過剰な妄想から創造する架空人物の伝記(一生)もの。この手法が得意とかそういった次元では既に無く、歴史の捏造に取り憑かれている。一からその世界を造る箱庭も病的なまでに緻密さを増し、延々と掘り続けるそのアンダーソン独自の暗い穴は、それを好奇心から面白がっていた人たち(大衆さえ)も置き去りにするほど深く、本作はほとんどアウトサイダー・アートの領域。
名のある役者をその歪な世界のキャラクターとして配置して、曖昧な会話からそれぞれの過去をぼんやりと浮かび上がらせる。だからといって、ドラマは排除されているので、なにをするとか、なにをしている、ではなく、すべては「なにをした」のぶつ切り。そこから物事が進展するわけでもなく、ただ予感だけは常に漂っている。その結果が幸福なのか不幸なのかは問題ではなく、というか、そういった感情にはまるで興味がない。つまり、物語ではなく「形式と記録」。偽物の世界のエセドキュメンタリーを撮り続けている現代を代表する表現者。結構やばいよね。
ポップで洒落た「人形劇」を操る創造者には確実に「死と喪失」があって、ここまで私的な鬱の匂いがしたのは『ダージリン急行』以来で、その辺りは心配にもなるけど好きだよ。やっぱりアンダーソンって重度の躁鬱なんじゃないかな。
アンダーソン映画の常連というか、アンダーソン劇団の一員でもあるいつものメンバーは作り手側において、新しく組む役者は映画(演劇)の方でガチャガチャと。迎える側とお客さんの立場で明確に線を引いている。にしても、エドワード・ノートンとエイドリアン・ブロディを信頼し過ぎているよな。確かに素晴らしい役者なんだけどさ。あの着ぐるみの中の人はジェフ・ゴールドブラムか!贅沢!
無神論者の精神異常者がキチガイ病院の壁に書き綴った一大絵巻って感じの映画。そういうのがお好きな人なら楽しめると思う。







初見ではややこしい、難しいとのレビューが多かったので、
みる前に知っておいた方がいいかも。
と思ったことも含めて、
ネタバレなしでざっくり感想です!

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『アステロイド・シティ』
難解になるわけ-いろいろな要素がつまってる
わたしのざっくり感想
やっていることは、いつものウェスアンダーソン
印象的な制作者のきもち/治療
タッパーに入った母親
賢い子どもたちの活躍
『アステロイド・シティ』
アステロイド・シティの構造
あらすじ
謙虚な宇宙人がきます。

『アステロイド・シティ』のあらすじを説明するのは少し複雑です。

というのも、
タイトルになっている『アステロイド・シティ』は、
コンラッド・アープ(エドワード・ノートン)という劇作家がつくった話。

その舞台の創作過程を
テレビで放送している
という入れ子構造。

予告でみるカラフルな世界は、
『アステロイド・シティ』という劇なのです。

1.カラフルな世界は作られた世界で、
人間たちは全員、役を演じている。
2.モノクロの世界では、
その劇を作っている作家や俳優たちの舞台裏が描かれ、
3.それを放送するテレビ番組。

3層になっています。
しかもその層をいったり来たりするので、
正直、初見で前情報なしでは混乱しました。

む〜ややこしい。

難解になるわけ-いろいろな要素がつまってる
さらに最近のウェスアンダーソン作品には
多い傾向ではありますが、
セリフも早くて小難しく、
役者には表情があまりない。

情報量も多くて(これは幸せなことだけど)
1回みただけでは、処理しきれず。

内容に関しては、結局なんだっけ。
となってしまったのは
正直なところです。

ウェスは1つのアイデアからではなく、
少なくとも2つ以上の異なるものを掛け合わせて
映画をつくりはじめるといいます。

二つが掛け合わさったものに、
さらに、さらにと、
掛け合わせていっているので、
実は難しくて、当然だったりします。

今作は
主役のジェイソン・シュワルツマンを軸に
話を考えていったこと

50年代アメリカの演劇界と映画界。
そして、それをつなぐ役目となった
テレビの関係性に魅了されたこと。

当時、活躍した劇作家や演劇指導、ハリウッドスターたちなど、
いくつもの人物や作品、出来事に
インスパイアされ、
イメージを膨らまし、
映画を制作していったとのこと。
(パンフレットのインタビュー記事参照)

さらに冷戦による人々の政府に対する不信感。
ハリウッドでは華やかしいスターが活躍する中、
裏では赤狩りによって映画は規制され、
自由に表現できなかった時代。
さらに核実験、軍による科学技術の開発、宇宙人の隠蔽など、
時代背景の要素も加わります。

それらの要素が、
どんどんウェスフィルターを通っていき、
最終的には誰がみても「ウェスアンダーソンだ」
としか言いようのない
あの世界やキャラクターが生まれていきます。

これには、いつも脱帽です。

でも、やっぱりここまでいろいろな要素を感じると、
難しく思うのはしょうがない気がしますね。

わたしのざっくり感想
『アステロイド・シティ』イラスト タイトル
アメリカン好きのわたしにとっては
ここ最近のウェスアンダーソン作品の中では
一番好きな世界感でした。

アステロイドシティのレゴが欲しい…!

先ほど、
書いたように一度見ただけでは、
全体を通してなんだったっけ。となりましたが
好きなシーンは、たくさんあってとても満足です。

やっていることは、いつものウェスアンダーソン
初見では、なんだか難しく感じますが
振り返って考えると
やはりいつものウェス・アンダーソンだなあ。
と思います。

印象的な制作者のきもち/治療
よくウェス作品は、
箱庭映画だと言われますが、
作りこまれた世界で、
自分の心と向き合っていく登場人物と、
それに重なる監督自身。
そして、それをみているわたしたち。

全体を通して印象的だったのは、
舞台裏と劇中をいったりきたりしているうちに、
たびたび、その境目がなくなる部分。
表現者と創作物がどっちにも影響し合うシーンです。

劇中劇の『アステロイド・シティ』の中では、
宇宙人が謙虚に登場し
街はパニック。(その時はみんな静かに見守っていましたが笑)
政府は、隠蔽をはかり
目撃した人たち全員を隔離し
身体検査をさせたりします。

一方、舞台裏では
宇宙人はなにかのメタファーとして登場させたが
なんのメタファーかわからないという。

他にも、オーギー(ジェイソン・シュワルツマン)は
劇中、わけもわからず自分の手をホットプレートで焼き
なんでこうしたのか自分でもわからないと言います。

舞台裏では
オーギー役のジョーンズ(ジェイソン・シュワルツマン)も
演じることがわからなくなり
作者や演出家に聞きに行きますが
彼らも曖昧な言葉で、明確な答えはありません。

その後、尺の都合でカットされた
彼の奥さん役(マーゴット・ロビー)との対話シーン。
ここで、さらに表現者と創作物の境目が
なくなっていく瞬間があります。

それをスクリーンで
見ているわたしの側にも
その境目がなくなったと感じる瞬間でした。

考えてみると
現実を生きる私たちにとっては
わからないことだらけが当たり前。
突然起こる出来事には
映画のように辻褄合わせやオチなんかありません。

自分でもよくわからない気持ちを
理解しようとして
人と話したり、ノートに書いたり
表現したりして答えを見つけられるかもしれないし、
見つからないかもしれない。
これが答えだと思っていたら、別の答えが待っていたり。
答えなどなくて他人に委ねたり、一緒に考えたりします。

今回の複雑なこの構成にした理由。
あれだけ過剰に作り込みをする
ウェスアンダーソンだからこそ
リアルで繊細なこころが
そこから感じとれる気がします。

よくわからなくても、それは、そのままでいいんじゃないの。
そのくらいでいいのだと、
なんだが治療された気がします。

タッパーに入った母親
『アステロイド・シティ』タッパーに入った母。妹たち。
今回はスペインのチンチョン郊外に
アステロイドの街を作ったようです。
砂漠や青空は本物だったのですね。

そのセットのおかげで
横移動だけではなく
ぐるっとカメラを360度回して魅せる
カメラワークがあったりします。

また、ギミックのある小道具や
パペットで動かしているナゾの鳥。
ミニチュアの汽車が走るシーンなど。
モノを感じる映像づくり。

ウェスの世界のモノたちは
その深刻な内容とは裏腹に
シュールなコミカルさを演出しています。

主人公オーギーは
自分の奥さんが亡くなったことを
子どもたちに告げられず、
義理の父(トム・ハンクス)に詰められ、
タッパーに入った奥さんをかかえ
子どもたちに打ち明けます。

息子のウッドロウ(ジェイク・ライアン)は
うすうす気づいていましたが
ウッドロウの妹3人は
死を理解できていません。

死をどう受け入れるか。
ウェス作品には
よく出てくるテーマですが
その重たい内容に反して、
遺灰がタッパーに入っていたり
3人の妹たちの埋葬の儀のための服装など、
なんとも愛らしくて、ウェスらしい。

ビジュアルのためだけではなく
物語の構成のひとつとしても
ウェス作品の小道具や美術は
重要な役割をしています。

ウェス・アンダーソンの映画のプロップ(物語のキーとなる小道具。主に紙媒体)
なども担当しているデザイナーが書いた本もあります。
小道具の重要性や
その制作裏も載っていて
おすすめですよ。
『映画プロップ・グラフィックス スクリーンの中の小道具たち』(アニー・アトキンズ著/グラフィック社)

賢い子どもたちの活躍
『アステロイド・シティ』勲章
『アステロイド・シティ』には
たくさん子どもたちが登場します。

宇宙人が来たことにより
大人たちがてんやわんやしている中
天才キッズたちは自分達の信念に基づき行動をおこします。
軍主催の科学授賞式で称された発明品を
国のためではなく、自分たちのために使います。

ジューン先生(マヤ・ホーク)も
動揺しつつも宇宙人についての授業を
子どもたちにはじめます。

そのクラスで
ひとりの男の子が、宇宙人のために歌を作ったと披露しますが
その瞬間、突然演奏がはじまり
みんなでダンス。
直前まで、「今は歌は違うんじゃないかしら」
といっていたジューン先生もなぜか一番ノリノリ。

急すぎて、なんなんだ…。
と笑ってしまいましたが
めちゃめちゃ良いシーンでした。

どんなことが起きても子どもたちは、
いつでも自分の心に従っています。
ウェス作品に登場する子どもたちは、いつも大人よりもとても賢いです。

人間のかかえるちょっと切ない気持ちや
どうしようもないことも
そのままで、そのままの形で
愛らしさに変えてしまうウェスアンダーソン。

上げ出したらキリがありませんが
「いいよね!あのシーンのあそこ!」と
言いたくなるシーンがたくさん。

秋頃には、ウェス・アンダーソン監督の短編。
『ヘンリー・シュガーのワンダフルな物語』(Netflixで9/28配信)も控えており
今年もまだまだウェスワールドは、続きます。
嬉しい限り!





🛸マリリン・モンロー
スカーレット・ヨハンソンが演じている役は、マリリン・モンローがモデルになっており、マリリンはお色気のイメージが強いが実はメソッドの名手とも言われている。マリリンは、自分自身のトラウマと対峙することで傷ついた女性を演じることが人前でできるようになったと語っており、スタニスラフスキー・システムは内面を見つめて演技に活かすスタイルなので、一部では自分と向き合いすぎて病んでしまった?とも言われている。

🛸ウェス・アンダーソンの作品性
ウェス・アンダーソンは、両親が亡くなったことがきっかけで、その後の作品は亡くなった人をテーマにしたものになった。作中でも『時間が癒やしてくれるのは、せいぜいバンドエイド程度のもので、傷はずっと癒えない』という台詞が語られている。

⚠️ここから先は映画のネタバレを含みます。
⚠️未鑑賞の方は、ご注意ください。

画像
引用:公式サイト
アフタートーク(ネタバレあり)
⚠️マリリン・モンローのオマージュ
①列車のなかで読まれた手紙は、前述のエリア・カザン監督が愛人だったマリリン・モンローに向けて書いた手紙が元ネタになっている。
②マリリン・モンローは、お風呂から上がったあとに睡眠薬で亡くなるのだが、似た構図のシーンが本作にも登場する。
③作中でスカーレット・ヨハンソンが言った『あまりにも傷ついたゆえに、誰にもその傷を見せたくないの』はマリリンモンローの人生を象徴しているような台詞になっている。
④マリリン・モンロー演じるヒロインがカウボーイと出会うことで癒やされるという作品があり、本作でもカウボーイスタイルの男性が登場しており、これは『荒馬と女』が元ネタになっている。この作品の脚本を担当しているアーサー・ミラーはマリリンモンローを癒そうとするが、癒せず、結果として『荒馬と女』がマリリン・モンローの遺作となった。

⚠️劇中のメッセージ
エンディング近くで『自分の役が分からない』と悩む役者が出てくる。これは大事なシーンかカットされたために、脚本には反映されておらず、そのため内面まで理解する演技メソッドに躓いてしまうためである。つまりこの作品は''本質的なテーマは映画の中にはないんだ''ということを監督が言いたいのではないかと、町山智浩氏談。

🛸その他
ちなみにこれまでTシャツは下着という扱いだったが、マーロン・ブランドがTシャツを格好良く着こなしていたことからそのままの姿で出演させ、これをきっかけにアメリカではTシャツが普段着の扱いになった。という話をアフタートークで聞いたのだが、マーロン・ブランドの話と本作との繋がりは忘れてしまいました…。その作品を撮ったエリア・カザン監督の名前も出ていたから、白黒シーンでエリア監督がモデルになってる人がいるとかいないとか(この辺、記憶がうっすらしててすみません…)
ルッコラ

ルッコラ