デッカード

アステロイド・シティのデッカードのネタバレレビュー・内容・結末

アステロイド・シティ(2023年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

※3,400字になりました。



アメリカの砂漠の町「アステロイド・シティ」を舞台に繰り広げられる群像劇。

映画はエドワード・ノートン演じる脚本家が書いたお芝居の世界とその舞台裏で構成され、お芝居の世界はカラーで、舞台裏はモノクロで描かれています。
さらに観客は舞台裏のその外側であるテレビ番組として作品を見ているという三重構造になっているので、ときどきナレーターが現れいろいろなコメントを挟みます。

お芝居である架空のクレーターのある砂漠の田舎町「アステロイド・シティ」を描くカラーパートはウェス・アンダーソン監督らしい独特の色彩感覚に満ちています。
1955年の設定であることは説明されているので色彩からは50年代のアメリカらしさを強く感じることができますし、さらに日本のマーブルチョコも連想させますが、一つ間違えると悪趣味になってしまうかもしれない色使いをしっかり微調整し絶妙なバランスで表現しているのは見事で美しいと思いました。
アンダーソン監督作品らしい色による主張の強さは本作でも健在であることが内容よりもまず強調されていますから、後で私見を書いていく不可解と言っていい内容への解釈を放棄しても、映画として十分楽しめると思いました。

劇中劇のストーリーは、1955年、架空の町「アステロイド・シティ」に科学者や科学に造詣の深い子どもたち、軍人などが集まっているところに突然UFOが飛来、宇宙人と遭遇、そこから国をあげての騒動が始まります。
国家的大事件が起こっている設定なのですが、映画全体の雰囲気は至ってのんびり。
群像劇らしく登場人物たちはそれぞれがそれぞれの事情でいろいろな出来事に関わっていくのですが、そのほとんどは個人的な家族関係や男女関係に終始していて、UFOと宇宙人とのコンタクトについてはほぼどうでもいい扱いになっています。
国家の隠蔽工作を暴露する少年のエピソードだけはありますが、扱いはやはり淡白。

たくさんの人たちの群像劇ですが、ジェイソン・シュワルツマン演じるオーギーとスカーレット・ヨハンソン演じるミッジが中心人物と言っていいかもしれません。
何度も繰り返される二人のコテージの窓越しの会話のシーンは、窓枠が額縁のような構図で色合いも美しく印象的でした。
スカーレット・ヨハンソンが睡眠薬自殺のことをほのめかす、年代的には明らかにマリリン・モンローを思い出させる女優を魅力的に演じていてもっとも印象に残りました。

お芝居の世界とともに創作する脚本家や演出家、出演者が登場する舞台裏も並行して描かれますが内容は曖昧で、正直なところウェス・アンダーソン監督に煙に巻かれたような気持ちになりました。

しかし、映画の中に出てくる様々なデェディールを一つひとつ取り上げていくと、そこには1955年という微妙な年代のアメリカ社会が垣間見えてきます。

第二次世界大戦を本国はほぼ無傷(唯一の被害を真珠湾攻撃に限定した場合)だったアメリカが、国際社会の覇権を握り経済的にも国民のほとんどが世界一豊かであろう生活に酔いしれた時代。
何よりアメリカの国民が国に対する誇りと信頼にあふれていた時代だったように思います。

しかし豊かさの裏にあった現実はどうだったのか?
東側諸国との冷戦構造での対応は、トルーマンにかわり大統領になったアイゼンハワーによって形を変えながらも強硬な姿勢を崩していませんでした。
東西が直接対決に至った朝鮮戦争が終わってまだ5年しか経っていません。
(朝鮮戦争を指揮したマッカーサーは核兵器の使用を強く進言しましたが、政府が許さなかったのはせめてもの救いでした)
また公民権運動もさかんになりつつもアフリカ系アメリカ人への差別は厳然として存在していました。
マリリン・モンローをセックス・シンボルとして見る視点には明らかなジェンダー蔑視の意識が強く働いています。
トム・ハンクスの登場は同時代を時系列で描いた『フォレスト・ガンプ』を意識させる手段だったかもしれません。

そんな現実が映画では、細かいディテールの中に潜まされているように思いました。

核兵器開発が行われている「アステロイド・シティ」のモデルが、ネバダの核実験場「エリア51」であることはUFOと宇宙人との遭遇というエピソードでそれを国家が隠蔽したストーリーからも容易に想像できます。
(『オッペンハイマー』を観た後だったので、ロス・アラモスも連想しました)

冷戦時代のアメリカ人の誇りに満ちあふれていた意識を、マット・ディロンの「負けたことのないアメリカ軍」というセリフや「ガダルカナル」の名前を出し圧倒的勝利に酔った太平洋戦争を連想させることで容易に推察させます。

また、UFOと宇宙人の事実の隠蔽を指揮する軍司令官がアフリカ系アメリカ人のジェフリー・ライトなのも公民権運動を連想させる一種の皮肉のようにも思えますし、他の兵士もネイティブ・アメリカンやアフリカ系の人が目立つのも実は差別的だった社会の比喩のようにも思えました。
ヌードに抵抗のないマリリン・モンローを意識したスカーレット・ヨハンソンの女優は先にも書きましたが、明らかに当時のジェンダー蔑視を象徴しています。

他にも私が気づかなかったディテールが、実は他にもたくさんあったかもしれません。

そして舞台裏のシーンの脚本家は、自分でもこの物語のテーマも結末もわかっていません。
俳優の突然の抜擢など舞台裏ではよくあるエピソードの羅列と考えることもできますが、一方で思い悩む脚本家の姿は、夢の世界、豊かさにあふれたカラーパートの自信にあふれたアメリカの裏側で、実際はすべての人が豊かさを享受できていたわけではないし社会が今考えると不適切に思える常識にとらわれていたことへの、悩ましさの比喩のようにも思えました。

ただ、そんな現実のアメリカ社会のすべてを必ずしも監督が否定的な眼差しで描いてはいないことがわかるのは、夢の世界のカラーパートでのオーギーとミッジのロマンチックな窓越しの会話をモノクロシーンでもジェイソン・シュワルツマンとマーゴット・ロビーの『ウエスト・サイド物語』('60)を連想させるシーンと連動させ、どちらも美しく描いていることからうかがえます。
愛を表現することが自由だった50年代のアメリカ社会のロマンチックな姿が、現実世界でも虚構の世界でも憧憬のように肯定的に描かれているように感じました。
そしてスカーレット・ヨハンソンが魅力的に描かれているのは、マリリン・モンローに代表される50年代に製作されたアメリカ映画は現代の映画作家から見るととても芳醇でうらやましく見えているのではないか?とも思えました。

ラストに向かって暗示的で象徴的に思える舞台裏シーンの、演出サイドと役者サイドが一同に口にする「眠らなければ目覚めることもない」の言葉にはいろいろな解釈の仕方があるように思います。
個人的には、この映画が冷戦時代のアメリカ社会を描いていることを考え、こんな解釈をしてみました。
世界の覇権を持ち豊かさを享受した50年代のアメリカ。その後ベトナム戦争や政治不信、格差社会の拡大などが続き、今のアメリカ社会は決して健全とは言えません。
しかし50年代に経験したうつつにこだわり続けている人たちはいて、特に保守的にアメリカを"強い国"だと言う大国思想を唱え続けている人たちは一定数います。
そんな人たちに、いったん眠る、つまり50年代の過去のうつつから離れ、その上で夢から覚めて、本当の現実を見つめる必要があるのではないか?という問いかけが「眠らなければ目覚めることもない」の言葉にはあると個人的には解釈しました。

この言葉の解釈は人によってもっといろいろな意見があると思いますので、これを書き終えたら他の方の感想も読んでみようと思っています。

寒々とした冷戦時代の東側の現実を郷愁と夢の世界を絡めて『グランド・ブダペスト・ホテル』で寓話のように描いたウェス・アンダーソン監督が、それに呼応する同じ夢の世界というモチーフで、今度は冷戦時代の反対側の西側、冷戦当時から何も変わらず現代でも世界の覇者であり続けようとするアメリカ社会を描いたのがこの映画だと思うと、カラフルでストーリーも難解で当初ちんぷんかんぷんだった映画の意味も自分なりにわかってきた気がしています。
デッカード

デッカード