春とヒコーキ土岡哲朗

さがすの春とヒコーキ土岡哲朗のネタバレレビュー・内容・結末

さがす(2022年製作の映画)
-

このレビューはネタバレを含みます

道徳からはみだしたところにも、苦しむ人がいる。

娘がシスターにつばを吐くシーンが一番笑った。怖い、暗い映画なのに笑ってしまうところがいくつもあったが、このシーンが一番豪快だった。そして「大人は分かってくれない」感がよく出たシーンだった。大人、ちゃんとした社会は、ダメな個人の感情を無視して、厳しいけど綺麗な「現実を見よう」論で先に進めようとする。保護までしてくれるというシスターにつばを吐いて思いっきり蹴散らしたのが、「社会は知らない。個人の話だ」と決定的に表明していて良かった。

殺すバカには分からない。結局、連続殺人犯は、死を求める人を楽にしてあげたいという建前のもと、自分の性的快楽を満たしていただけ。高尚なことを言っているつもりなんだろうが、ある種最も俗っぽい。ダサくて、ただの人間だお前は、と思った。

奥さんの自殺を止めないシーンが、怖すぎ。
体の自由がなくなってから、死にたがっている妻。それでも夫は「そんなこと言わないで」とずっと支えてきた。しかし、ある日帰ってくると、妻がなんとかして首を吊ろうとしていた。それを見て、目が合って、なお動かずに見殺しにしようとする佐藤二郎。本人がそんなに生きているのがつらいなら死なせてやりたいという気持ちが勝った。そこに、常識が再起動して「何やってんだ!」と自殺を止めるまでの、間。妻に見殺しにするところを見られている恐怖もあるが、それでも死なせてやろうとすることに二人の状況の過酷さを感じた。

誰も本当は死にたくなんかない。
自殺志願をしてきたハンドルネーム・ムクドリ。本人の希望で綺麗な服に着替えさせているときに、佐藤二郎が泣き出してしまう。妻の介護を思い出し、自分たちより若いムクドリにはまだ希望を持って生きてほしいのに、そう上手くいっていないムクドリへの同情もあるだろう。そこで一緒になって泣くムクドリ。それを見て、ああ、本当は自殺志願者も誰も死にたくなんてないんだ、と思った。
本当は、楽しく生きたかった。それができなかったから、生きる希望を失ったから、死に向かっただけ。それを描きながらも、結局ムクドリが死ぬのをやめないところに、厳しい現実を突き付けられた。

ムクドリは、佐藤二郎に首を絞めるよう頼み、殺してもらう。そのとき、佐藤二郎の目には妻の姿が重なる。死にたがっていた妻を自分では殺せず、殺人鬼に頼んだ。自分が手を汚さなかった罪悪感がずっとあった。それを、ムクドリを死なせることでやっと解消できた。
罪悪感の経緯も、解消するための行動も、全て歪んでいる。だけど、人の死を受け止める=その人の生を讃える行為な気もする。死まで含めて、生きるということだから。

後半の加速具合がすごかった。佐藤二郎と殺人鬼が共犯と分かってからの加速。

終盤も、どこで終わるのか分からずハラハラすぎる。
平穏な日々に戻れるのか、戻れないのかを行ったり来たり。
二人が卓球するシーンでなんとか平穏側に戻ったかと思いきや、「さっきの待ち合わせ、お前か」で、もう戻れないひっくり返し。父は娘の秘密を知っているし、自分の秘密が娘にバレていることも知っている。それを声に出して言ってしまった。その一線を超える一言だった。

しかし、ムクドリを死なせることでやっとトラウマを克服した父を迎え入れるような娘の愛。「やっと見つけた」。
『さがす』というタイトル通り、いなくなった父を探していた娘が、父を理解してあげた終わり方。バレてしまって後戻りできない不安とは反対に、救いのある結末に感じた。