幽斎

あのことの幽斎のレビュー・感想・評価

あのこと(2021年製作の映画)
4.4
レビュー済「ナチス第三の男」脚本家Audrey Diwanが、中絶が違法時代のフランスを舞台に、ヒロインの孤独な戦いと葛藤を描いた問題作。ヴェネツィア映画祭コンペティション部門最高賞、金獅子賞受賞作品。京都のミニシアター、京都シネマで鑑賞。

原題「L'événement」事件。Annie Ernaux 82歳の代表的な短編小説。書かれたのは2000年フラット、日本では「嫉妬」併録でハヤカワ文庫上梓。同年にノーベル文学賞受賞。2020年「シンプルな情熱」も映画化。ルノードー賞、マルグリット・デュラス賞等、フランス文学界の至宝だが、作風は所謂Auto fictionで、自伝風の作者と語り手が同一人物に依拠。代表作「凍りついた女」早川書房の招きで来日した事も有る。

シンプルだが日本のギャガの邦題にはセンスも感じる。主演はレビュー済「エルELLE」フランスの世界遺産女優Isabelle Huppertさまと共演した「ヴィオレッタ」ルーマニア出身で本作でセザール賞のアンヌ役Anamaria Vartolomei 24歳。作品はフランス映画らしいプロポーザルな演出が見事。スリリングなカメラワークも、ハリウッドと趣を異にする臨場感も醸し出す。1963年と言えば私の父親世代だが、昔とも呼べない時代の出来事に日本人も意外に思うだろう。監督も中絶経験が有り、プロデューサーEdouard Weilの「愛の残像」フランスらしい黒い情念で「あのこと」意味深な現実を観客も追体験する。

秀逸なのは説明的なロジックを避け、観客の目線をアンヌの視点とシンクロさせる事で、監督は物語の展開=アンヌの体験としてインクルージョンする。女性の人権問題も内包させ、時を超えて現代にも通じる普遍性まで詳らかに。個人主義大国アメリカも中絶は宗教的なテーマも絡んで国を二分する。昨年の連邦最高裁判所で「中絶は憲法で認められた女性の権利」半世紀振りに覆した。アメリカは韓国と並んでレイプや近親相姦が多いにも関わらず。私達も「アンヌは大変ね」ではなく自分事として考えなければ時間の無駄。私の様な独身アラサー男も、無論例外では無い。

日本の中絶は堕胎罪で禁じるが、母体保護法で22週未満で有れば合法も、配偶者の同意が必要。日本はアメリカで一般的な中絶薬は認可されて無い。アフターピルはAVを見る男性諸君は必ず聞き覚えが有ると思う(笑)、緊急避妊薬のノルレボ錠は、年々単価は安く成ってるとは言え、まだ1万円程度が全額自己負担。今年に入り重い腰を上げた厚生労働省は薬局で試験的な販売を行う。レイプが非同意性交罪に改められた事とリンクするが、時間との勝負なので迷わず総合病院の救急外来を受診する事を強くお薦めする。

日本人からすれば「親に相談すれば良いじゃん」果たして貴方自身はどうだろう?。ニュースで母親が子供を虐待するばかりか死に至らしめる事件が妙に増えたと思う。多くのケースはシングルマザーで、男から見れば「安易に離婚するから」Yahooトピックに書き込みそうだが、私は全ての原因は「貧困」だと思うし、ソレは政治の責任でも有る。私の父親世代なんて大学に行く事自体が稀だった。でもね、下手に京都の大学を出た父親を持つ子供のブレシャーも凄いんです(笑)。

鑑賞後に原作を読了したが、原作では母親が汚れた下着が有る事で、娘の生理が来てる事を確認したと書かれてる。映画でも実家に帰る度に母親に汚れた下着を洗ってもらうシーンが有る。つまり、母親は何事も無く無事に大学を卒業して欲しい、ソレは彼女にとって幸せでも有りプレッシャーでも有る。娘は妊娠を隠す為に実家に帰るが、中絶手術が失敗すれば、隣で微笑む母親とも会えない冷たい現実が横たわる。

アンヌは産んでから捨てるか、産む前に殺すか、究極の選択を迫られる。私が当時の医師でも「受け入れるしかない」諭すだろう。親友も「勝手にしてよ、私を巻き込まないで」逃げてしまう。ソレが一転したのがフランスを代表する作家Françoise Saganが起こした女性運動。彼女は「私は中絶と言う罪を犯した」プラカードを掲げて抗議デモを起こす、ソレに国民的女優Catherine Deneuveも同調してムーブメントを巻き起こした。「妊娠しないのは運が良かっただけ」と言う時代に漸く幕を下ろした。

フランスの国技が「SEX」と信じて疑わないが、原作者も監督もセックスの欲求を包み隠さず描く点が、国民性と言うか奔放と言うか脈々と受け継がれてる。男を誘う服に身を包んで、望んでセックスをやり遂げた結果、妊娠して中絶する訳だが日本なら「何で私だけ妊娠するの」悲観に暮れるだろうし、アメリカなら父親が孕ませた男の家に銃を持って殴り込み(笑)。自助努力に奔走するアンヌとは対照的に、種馬の男は彼女に対する解決策すら考えもせず、友人関係を優先するなど無責任極まりない。

フランス人は個人主義と言うが、アメリカとの違いは「自らの行動に責任を取らない」現実を受け止めないのは、フランスの国民性だと痛烈に批判。妊娠してるなら大丈夫とセックスしようとする暴挙には開いた口が塞がらない。1963年も2023年も個人主義と言う都合の良い普遍性は脈々と流れてる。其処から透けて見えるのは、中絶禁止と言う固定概念が蔓延、中国の様な監視社会に似た全体主義故の怖さ、とも言える。

流石は映画発祥の地、フランスだなと感じたのは学生達が専攻するのは「文学」つまり思想はリベラルだが、フランスの国技が「SEX」でも一方ではタブー視する自己矛盾。凄みの有る伏線として、冒頭の講義で紹介されたのはLouis Aragon、Louis Vuittonでは無い(笑)。フランスを代表する詩人だが、彼はレジスタンス文学に代表される反体制派。

終盤ではVictor Hugo、正反対のロマン主義が登場。代表作は「レ・ミゼラブル」。と言う事は、本作は起承転結を無視するフランスのミステリー顔負けの、ポリティカル・スリラーにも見える。アンヌは反社会的な中絶と言うテーマに対峙、レジスタンスに身を投じる様に見えた。ハリウッドなら「やっぱり中絶って怖いね」観客を誘導するが、本作は「あのこと」見過ごせない現実だと提起する。私は映画的な思想ではアメリカはフランスに100年経っても追い付けないだろうと、俯瞰した目線で瞬きを忘れて見つめていた。

女性の人権と命の問題で対立する事は断じて赦されない。負の遺産を消すのも人間なのだ。
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