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土を喰らう十二ヵ月のmiyuのレビュー・感想・評価

土を喰らう十二ヵ月(2022年製作の映画)
3.5
良かった。

生活のいろいろなところに、クリエイティビティは宿り得る。
生に、日々の選択に。

表現、というとアピールのようなニュアンスが強まってしまうが、季節はどんどんと移り変わっていき、時はどんどん過ぎ、自分の身体も刻一刻と変化していく中で、記録をしていかないと、摑まえないと、という感覚がある。そのときに、どのような方法でそれをやっていくか。劇中の主人公にとってはそれは料理や、畑や、文章だった。というか、生きていること、生きてきた身体それ自体が、その人の表現であるともいえるかもしれない。だからこそ、これまでの人生の記録そのもののような肉体が消えゆくという”死”が、怖れるものとして認識されるのであろう。

生活の中の場面においても、人が抱く感覚・感情・思考は、その人の内側でだけそのありのままの本当の姿となりうる。外に出した途端、それらは始めの鮮度を失う。だからこそ、速くやるためには、そしてできるだけ正直なものを最後まで作りとおそうとすればするほど、人がそばにいて干渉するような生き方というのは向かない、ということになる。孤独が必要。だからこそ、一定程度幅を広げたら、次は自分の世界をつくってそこで独りで潜っていくことも重要なのだろう。死というのはまさに、自分だけが共有できるものだ。肉体はそれぞれの人間だけが自分に所属するものとしてかんじられるこそ。そのタイミングにおいてはなおさら孤独の中でそれに向き合うという時間が必要なのかもしれない。

みんなやっぱりさみしくて、だからすれ違ったり、だから合致したり、ということが起きる。「まち子」と声をかけて食卓を囲めるということは単純にうれしいことである一方で自分がしてきた生き方があるし、現在の自分が向き合うべきもの、というのも自覚していて、その中でしっかりと然るべき孤独に向かう事ができるという勇気。さみしさへの耐久性が、やっぱり年を取っている分だけ、ある。
そのような、共有できない、というさみしさを持ちながら、人と共に生きること、人に言葉を放ち、受け取るということは、なぜ行われていくのか。
「愛する」「愛せた」とはなんだろうなあ、と考えた。

表現とは別に、”創造”という、そのままの意味を持つものとしてのクリエイティビティも生活の中に存在している。その行為自体を楽しむようなものとしてのクリエイティビティの発揮。
創造するための引き出しを増やす期間というのは必要である。主人公にとってそれは、9歳~12歳のときの禅寺での修行の時間だったのかもしれない。
一方で創造は、世界と出会っていくための経路、でもありながら、本当に自分や他者や自然の深いところにまで潜っていこうとするならば、それはむしろ、より限定的というか、研ぎ澄まされた環境の中で自分に向き合うことを必要とする。情報をたくさん入れるという必要はなくて、自分のペースで入れたあと、むしろもっと自分の肉体で感じること、によって自分で学びを続けながら創造をしていくという段階に移る必要がある。自分の身体を通した記録・記憶と学習。

明日も、明後日もある、ではなく、今日一日暮らせればそれでよい、という姿勢が印象的。でも、そのような姿勢でありながら畑など今後を見据えた行為もその”今日”の中に含めていられる、というのはどういうことだろう、と思った。
それは、未来のため、とかではなく、「楽しいから」行われている未来への投資、なのだろうか。
自分の身体で感じ、つくり、骨身としていくような生活。そこに必要となるものは、自然と、自分1人の身体、なのかもしれない。
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