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ワース 命の値段のCHEBUNBUNのレビュー・感想・評価

ワース 命の値段(2019年製作の映画)
4.0
【心の痛みは計算できるのか?】
本感想は、作業配信中に完成させました▼
https://www.youtube.com/watch?v=tcHAYFlphHY&t=2873s

2023年2月23日(木・祝)にTOHOシネマズ新宿ほかにて公開される『ワース 命の値段』。本作はアメリカ同時多発テロ被害者の補償金分配をめぐって東奔西走した弁護士ケン・ファインバーグの物語を映画化した実話ものである。今回、ロングライドさんのご厚意により一足早く鑑賞したので感想を書いていく。

ケン・ファインバーグ(マイケル・キートン)は列車に乗っている。優雅にクラシック音楽を聴きながら仕事場に向かっている。すると、列車の奥でお客さんが狼狽し始める。しかし、前方座席に座っている彼は異変に気づかない。段々と、狼狽する客は増えてくる。窓の外を見る者、電話を片手にあたふたする者が群れを形成していく。ケンの左隣にいる人が立ち上がったところで、ようやく彼はヘッドホンを外す。そして、窓を見ると、ビルから煙が上がっている。この見事な対位法を序盤に見せてくることで、凄惨な事件の経緯を追うだけのドラマでないことがわかる。

この作品は、私情と論理のバランスの中でいかにして難題を解決するかを描いている。経営層と現場の軋轢に悩まされている人にとっては、心揺さぶられる作品となることでしょう。ケン・ファインバーグは、いくつもの難しい案件を解決してきた人物である。そのため、白羽の矢が立ち、アメリカ同時多発テロ被害者の補償金分配を巡る案件が舞い込んでも動じることはない。この案件は非常に厄介である。遺族/被害者をケアする補償金プロジェクトが立ち上がり、関係者7,000人のうち80%もの賛同を得る必要があるのだが、企業・政府から釘を刺されている。全員に十分な補償を行うとなると、企業は倒産してしまう。企業が倒産することで、アメリカ経済に大穴が空いてしまうので、政府からも上手く関係者を説得してほしいと頼まれている。妻から、断った方がいいのではと言われるものの、正義感の強いケンはこの案件を引き受けて、チームを引っ張ることとなる。

プロジェクトが立ち上がると、補償する範囲や期限といった細かい定義の確認が行われる。ランチミーティングをしながら綿密に計画を立てて、関係者と会うこととなる。メンバーは、関係者の私情に段々と同情していき、正常に物事が判断できなくなりそうになる。弱音を吐きそうになる場面もある。しかし、幾多もの難しい案件をこなしてきた彼は冷徹に「私情を持ち込んではいけない」とチームに言い放つ。これが原因で、チームとの間に溝ができてしまう。また、数式と論理によって死者や被害者の痛みを精算することに反対する勢力まで現れて、プロジェクトは暗礁に乗り上げてしまう。

マルティン・ハイデッガーは「技術への問い」の中で、「集-立(Ge-stell)」という理論を提示している。人間は、川の水を貯蓄し電気を生み出すなど、コントロールできないもの(=自然)を制御することでエネルギーを蓄えてきた。しかし、産業革命以降、この自然の対象が人間へと向けられる。例えば、Amazonで商品を頼んだ際に、遅れて届いてしまった場合。また、電車が定刻通りに来なかった時、人々は苛立ちを覚えるであろう。この苛立ちには、物を運送する者の存在、電車を運転する人の存在がかき消されてしまう。ハイデッガーは、このように人間を自然と同じよう制御する行為の中で、「存在から見放されていること」が発生してしまっていると語っている。

ケン・ファインバーグの場合、私情を持ち込むことで、問題の解決が困難になってしまうと考え、一貫して論理的に対話を行う。しかし、これは関係者を自分のロジックによって制御しようとしていることである。他者からすれば、自分に歩み寄っていないように思えてしまうわけである。

例えば、会社でも経営層が理論上可能なコスト削減方針を現場に命令したとしよう。現場からすると、感情的な部分で能率が下がる場面がある。作業場所の削減により、心理的圧迫感が高まり、作業にやりづらさを覚えるなど。この感覚を数値化できなかった場合、経営層は無視するであろう。ここで溝が生まれる。現場からすれば、「自分は個人としてではなく、システムの歯車にすぎない」と思うであろう。これがハイデッガーのいうところの「存在から見放されていること」である。

『ワース 命の値段』は、私情を排した論理的思考でチームに分断を引き起こしてしまった彼が、自分の過ちに気づき、軌道修正していくところが魅力的だ。誰しもが、自分の理論は正しいと思うことがある。しかし、その理論が間違っていた場合に軌道修正ができるのか?敵対していた人と対等に議論をし、時として味方にする勇気はあるのか?リーダーとしての威厳を保ちながら、繊細に多くの人と調整を行っていく物語は、働く者に活力を与えるであろう。

本作の監督は、『シノニムズ』で金熊賞を受賞したナダヴ・ラピド監督作のリメイク『キンダーガーテン・ティーチャー』を手がけたサラ・コランジェロ。今回、初めて彼女の作品を観たのだが、堅実な映画的ショットと複雑な人間関係を紐解くプロセスに長けた監督と感じた。今後も追って行きたい監督である。
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