くまちゃん

ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービーのくまちゃんのネタバレレビュー・内容・結末

3.3

このレビューはネタバレを含みます

世界一有名な配管工兼元祖パルクーラーマリオ。2008年のニューヨーク・タイムズによればこの星で最も認知された架空のキャラクター。匹敵するのはミッキーマウスだけとのことだ。
ゲーム内には多数の設定が存在するもののミッションをクリアしストーリーを推し進めるアイコンとしての印象が強い。しかし今作ではマリオ、ルイージ、ピーチ、クッパ、キノピオに至るまで魂が宿り生物としての多面性が付与されている。
特徴のあるジャンプやアクションにパルクールのような身体性を当てはめたのは実に現代的なアプローチでありアクション映画としての見ごたえもある。

マリオは初登場した「ドンキーコング」において、ドットで表現する際の視認性を優先させることで今のデザインになった。年齢は24歳〜26歳程度。帽子を脱げばその特徴のないヘアスタイルと口髭が相まって設定年齢より高く見える。

ドンキーコングとの対戦ではキノピオに「むごい」と言わしめるほど殴打されていたにも関わらずそれほど外傷は見られない。対してクッパとの対戦では子供に見せることを躊躇してしまうぐらい瞼が腫れ、痣と生傷で満身創痍に陥る。
この違いは何なのか?
その矛盾が作品の軽薄さを象徴しているかのよう。。
「マリオ」というブランドを掲げたことにより、制作陣も観客側も無意識に任天堂のパブリックイメージに誘引されたのではないか。だから今作にオリジナリティがない。これがみんなが見たかったマリオであると強制された結果、映画として非常に子供じみたつまらない作品になってしまった。
例えば、配管工として自立しようとするこじらせ中年な孤立と葛藤、ルイージとの兄弟愛、クッパのピーチに対する歪んだ愛情が描かれる一方、異世界に迷い込んで凶悪な敵と戦うというストレスレベルが強い部分ではそれほどの苦悩が見られない。
ドンキーコングとの対戦で体格差と戦闘経験の差などから勝機が見込めないにも関わらず無謀に立ち向かう姿は観客にどのように映っただろうか?
それは勇敢なヒーローではない。
配管工含め、設備、建築、土木等の技術職は些細な気の緩みや少しの見落としが重大事故に繋がりかねない。だからこそ危険予知活動やヒヤリハット活動といったリスクマネジメントが必要になる。
マリオはルイージを救うため盲目的に暴走しておりリスクコントロールが皆無。職人仕事を生業にしているとは思えぬ無鉄砲さ。
クッパを倒し一件落着。今作で死亡者はでない。仲間も凶刃に倒れることもない。その展開は誰もが望み、予測できた。逆に言えば意外性、独創性がない。
キャラクターの魅力のみで推進されるため後半はやや失速する。
確かにイルミネーション、任天堂、両者の偉大さを再認識させられた。これは大人が見ても子供が見ても「マリオ」を通っていなくても楽しめる。
しかし「楽しい」と「面白い」は明確な齟齬があり、その溝が埋まる事なく世界でヒットしてしまった。ある種の功罪。
今作はアトラクションとしては楽しめる。だが映画としては子供向けで面白みに欠ける。
遊園地でアトラクションに乗り、刹那的な愉悦に浸りながらも終わった瞬間売店で買ったジェラートと共に咀嚼すらなく胃の中へ忘却されていく。
それが今作の持つ魅力であり欠点だ。
楽しいだけでは楽しめない、それが映画の奥深さ。

今作の出演者が発表されて以降、ジョン・レグイザモはそのキャスティングに「多様性と包括性の欠如」と苦言を呈してきた。マリオとルイージはイタリア人だとされているが、今作で演じるクリス・プラットもチャーリー・デイもイタリア系ではない。ジョン・レグイザモは1993年「スーパーマリオ 魔界帝国の女神」にてルイージを演じている。彼はイタリア系でもイタリア人でもないがラテン系(有色人種)である。ハリウッドでは本来白人ではないキャラクターを白人が演じることが多々あり「ホワイトウォッシング」として批判の的となっている。これは根深い人種問題に起因するものだ。この問題に照らし合わせると世界を視野に入れた作品で白人が多いのは差別的と揶揄されても仕方がないだろう。
2018年「スパイダーマン スパイダーバース」では主人公の黒人少年マイルスに黒人俳優シャメイル・ムーアがあてられた。
つまり人種問題はアニメーションも例外ではない。
その一方で、年齢や性別やそれこそ人種をも超越できるのがアニメーションの醍醐味であろうこともまた事実。人語を話す犬に犬を配役する訳にはいかない。ポリティカル・コレクトネスの難儀な部分がここに表出し、アニメーションキャスティングのパラドックスと言えるだろう。
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