じゅ

君は行く先を知らないのじゅのネタバレレビュー・内容・結末

君は行く先を知らない(2021年製作の映画)
3.7

このレビューはネタバレを含みます

なあんにも読めん!エンディング
まあべつにせめて英語併記してくれとは言わんけど(英語もそんな読めないし)、こんな、なんかよくわかんないけど、なんとなくいい感じの物語を届けてくれた人たちの名が一ミリも読めないのがなんか勿体ないんだ。


そのいい感じ具合が文字で復元できるかというと俺には無理だから、将来の俺には再視聴してもらう他ないんだけど、内容としては父と母と2人の息子が車でどこかへ向かうっていうようなお話。
兄が運転して、歳の離れた小さな弟が騒ぐ暴れる駄々をこねる。愛犬を荷台に乗せ、母と父は時折背後を気にしながら、これから何かが「最後」になるらしいことの悲しみを覗かせている。
兄は隣国へ密入国しようとしており、その業者の元へ行く道中だった。両親が家や車を抵当に入れて金を作った。
業者の元へ着いた後、数日の隔離の後に最後に兄と顔を合わせてもらえるはずが、何も言わずに業者は密入国者たちを連れて行った。仕方なくついた帰路、重病を負っていた愛犬が急死した。通っていた砂漠の真ん中にその亡骸を埋め、車は再び走り出した。


思ってたよりやたら賑やかでやかましかったな。だいたいずっと車の旅だけど、ずっと何やら独特なノリで話し続けてて、そんであの少年役にめっちゃめちゃ叫ばせるじゃん。
母親がミュージカルばりに助手席で運転席の長男に向かって歌うところとか意味わかんなくてなんか好きだったけど、再会できるかわかんない旅に長男を送り出す道中だったことを思うとなんか複雑な気分になる。ちょっとでも紛らわせたかったんかな。

なんか一つの観点としては、準備なんてできてない(できるはずもない)お別れの話なのかなと思った。両親にとっての上の息子との別れに、少年にとっての愛犬との別れ。どれも不意打ちだった。自分らが何しにどこへ向かってるか少年には明かされていなかったみたいに、俺らもわけわかんないまま確実に何かとのお別れに向かってってるんだよな。君は行く先を知らない。俺も行く先を知らない。俺ら自身がどこに行くのかも、お別れする何かがどこに行くのかも。


途中で乗せた自転車レーサーもめっちゃ気になる。(そういえばなんでわざわざ父親に脚を怪我させてたのかも。)
父親(たしかオスロとかそんな名前)が道に落ちてる潰れた空き缶を拾おうとして自転車の集団を見送るところがあって、その後に車で自転車集団に追いついた時に最初に並走したのがあの自転車のにーちゃんだったから、彼は集団の後ろを走ってたことになる。でもあのにーちゃんはトップを走ってたみたいなこと言ってたか。車の一行が前方の集団の通過を見送ったことも知らずに。その後に車内でピスタチオを落としたとか何とかで彼が頭を下げている間に集団を抜き去って、そのだいぶ前方の病院も民家も見当たらない地点で車を降りて自転車で走り去った。
病院に行くとか一旦家に帰るとか言ってたけど、まあ十中八九、大胆な不正だろうな。

アームストロングが癌を克服してどうとか、でもドーピングを認めて自転車競技界から追放されたとか、「息子も実は…」みたいな話をしかけて静止されてたりとか、この辺りのくだりは罪に関する話をしてた。チャリニキ曰く、俺たちは境界線を引いて罪を境界線の向こうの無意識の領域に追いやってしまうとか何とか。そうなったらもう分析できないんだとか。レーサーでありながらレースでの不正はチャニキの無意識の境界線の向こうなのか。
あるいは、レーサーだからこそなんだろうか。レーサーがロクでもねえ奴らだとか言ってるわけじゃ全然なくて、つまりは職業人だからこそその職業での不正が平気になってしまう、的な。重圧か何かでその辺の感覚がバグったとか、長く居すぎて腐ったとか、まあいろいろ原因はあるのかもしれんけど。


パンフレット読んだけど、長男が亡命するに至った事情の考察が記されてた。そもそも本作の舞台のイランでの亡命の理由というのは大きく3つに分類できて、経済的な事情、社会的な事情、政治的な事情があるとのこと。イスラム共和国体制下での経済の停滞が1つ、イデオロギー体制故のライフスタイルの押し付けが1つ、言論やら結社やら報道の自由のきつい抑制が1つ。この長男においては、父親が電話で「まだ召喚されてない」と言っていたこととか、自宅が抵当に入っていることから、長男は仮釈放中の身で例えば政治活動に参加して逮捕されていたのではないかとのこと。つまり政治的な事情での亡命を試みているとの説。中村菜穂大阪大学助教授と、ケイワン・アブドリ神奈川大学非常勤講師のコラムから。

ともすれば、チャニキの罪の話の流れで対比された彼と長男はそう単純に同列に見ることはできない気がしてくる。チャニキは無意識の境界がなんだとかうだうだ言い訳を並べて結局のところ自身の中に罪の源泉を持ってたけど、一方で長男の中にあったのは彼なりの正義だ。片や内から湧き出た罪で、片や外から着せられた罪だ。
最終的に、御託を並べて曲がったことをそのままにする者が国に残って、曲がったことに正面から立ち向かった(であろう)者が国を去った。やるせないアンバランスだ。


実際、亡命云々の社会問題はイランにあるのだそう。大枚叩いてあのセルビアンフィルムみてえなやつに乗せられて、トルコに逃れる人が多いんだとか。イラン人はトルコの入国にビザが不要で、EU加盟国のギリシャとかブルガリアに面しているトルコの地理的特性上その後EUまで行けるから。本作の監督で脚本で製作のパナー・パナヒも、知人の多くが極秘で旅立ったとインタビューで語ってた。
加えて、イスラム体制下で女性が公の場で歌うことは禁じられているんだとか。母親が長男の隣でめっちゃノリノリで歌う場面が急に始まるとこあって、単に独特な場面転換でおもろいなくらいにしか思ってなかったけど、あれそんな挑戦的なことやってたのか。

それと、父のジャファル・パナヒは著名な映画人で、言論や表現の自由を巡って政府と闘って2010年に反政府宣伝活動で捕まったことにも触れられてた。映画製作の20年間の禁止と国外渡航の禁止を言い渡されたけど、フラッシュメモリに保存した『これは映画ではない』をケーキに仕込んでカンヌに出品したとか。個人的に最近広く浅く映画史を勉強したことあったけど、そんなエピソード聞いたことあったわ。まさかその息子の映画を観ることになるとは。

その辺の背景も知るとより興味深く思う。
あとバイク男が現れるとこと去ってくとこの霧のコントロールがお見事。
じゅ

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