浦切三語

オッペンハイマーの浦切三語のレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
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【動画版の感想】
https://youtu.be/RieZxujoSmg

一回観ただけでは消化しきれない何かがある映画なのでひとまず評点は置いておきますが、確かなのは、この映画はロバート・オッペンハイマーの目を通じて「世界が静かな熱狂に包まれて壊れていく様子」を、核分裂や量子力学論的なイメージ映像の数々(中性子放射、粒子の波動性、ボーアの惑星型原子モデル、あと微妙に"超弦"も入ってたと思う)に乗せて伝えてくる一方で、そうしたサイエンス・チックなイメージ映像とは完全に趣を異にする、どこかエスピオナージ・チックな政治劇(オッペンハイマーの国民性をテストする審問会)が展開されるというのが、この映画の特徴です(そして時系列を考えるなら、ストローズの白黒映像がこれらの全てを内包する形になっている)。

で、その二つのシーンというか時系列が映像やドラマ的に噛み合っているのかというと、これがなかなか、判断が難しい。なぜ難しいかというと、映像が映し出しているものと、その奥底で語られていることが、全くの別物であるように見えてくるからだ。

自国の平和の為に原爆を作った男がソ連との繋がりを疑われて赤狩りの餌食になり、執拗にソ連への核開発に関する技術供与の疑いを追求される政治的映像が展開されるものの、その時にオッペンハイマーが内に抱いていた苦悩は恐らく、自らが持つ国民性の忠実さをどう証明すれば良いかではなく、政治的な争いの領域からは外れた「責任と良心」という部分で苦しんでいたのではないか。つまり映像に出ている政治劇とオッペンハイマーの葛藤がほとんど関係ないんだよね。「アカかどうか疑われていること」を辛いと思っている訳じゃないのよ。自分のやったことの責任から逃れようとしているオッペンハイマーが、自身の気持ち悪さを自覚できるかどうかってところが心的なシーンのメインになっていると思うんですよなあ。

政府の指示で計画に加わり、使用方法についての提言も政府が行う。科学者は仮説に基づいて実験を繰り返し、プロジェクトを成功に導く……失敗したら、当然責任を取らされる。だが場合によっては、プロジェクトが大成功を迎えた後の責任を取るというケースも考えられるんじゃないのか。

原爆の開発成功に一旦は喜ぶオッペンハイマーが、広島と長崎に原爆が落とされた一報を耳にして、民衆の前で「良心」を誤魔化しながら日本とドイツを悪し様に罵り、それに涙を流して熱狂するアメリカ国民の割れんばかりの拍手が鳴り響いたあのシーン。あのシーンで、おそらくこの映画の世界は「壊れた」のだ。

自分の苦しみは容易に想像できても、他人の苦しみは容易に想像できない人間という生き物。最後には「想像力」がものをいう量子力学を学んでいながら、原爆を使ったら世界がどうなるかを、実際に原爆を使ってみるまではわからなかったオッペンハイマー。だが、これはなにもオッペンハイマーの「愚かさ」を指摘しているのではない。というのは、この映画が描く「原爆がどういった被害をもたらすかは、実際に原爆が使われてみないことにはわからない」というスタンスは「素粒子の位置を正確に知ることは、実際に素粒子を観察してみないことには分からない」という、量子力学の「不確定性原理(発見したのはこの映画でもちょっとだけ出てきたハイゼンベルク)」に通じるものがあるからだ。そこには人間の主体的な業や愚かさが招いた人類史上の悲劇というより、アインシュタインがシュレディンガーの波動関数を非難する際に口にした「神はサイコロを振らない」という言葉の通り、まるでこの世界の、銀河の、宇宙の理が「確率的に"そう"」させているような恐ろしさがある。

私たち人間は、滅ぶべくして生まれてきたのか――原爆開発の罪をオッペンハイマーひとりに被せることを最後までしないこの映画は、もしかすると原爆の誕生は、天才科学者の寄与や、政治的な流れや、資金調達や、豊富な資源といったものではなく、「宇宙が確率的にそれを選んだからそうなった」という、なにか途方もないことを言っているのかもしれない。


※劇中でマッカーシーを「自己承認欲求のカス野郎」と断罪しているところに、映画監督としてのノーランの意識が出てますね。ハリウッドにおいて「黒歴史」になっているマッカーシーと赤狩りを描いているというのも、アカデミー会員的にはポイントが高かったのでしょう。だから作品賞獲ったのかも。
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