こーたろー

オッペンハイマーのこーたろーのレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
4.5
 まずこの映画が日本で公開されたことが素晴らしい。アメリカでは去年の夏には公開されていて、日本では内容がセンシティブだから公開されないんじゃないかといった話も出ていたけれどこれは日本人全員が見るべき映画だった。

 自分はオッペンハイマーが原爆の父と呼ばれていて、原爆を作った研究者であったことしか知らない状態で本作を見た。ストーリーの冒頭はギリシャ神話のプロメテウスの話のテロップから始まる。プロメテウスは天界の火を盗んで、人類に火を与えた。人間はそれ以来、火を使って暖をとり、暗闇を灯すことができるようになるが火を盗んだプロメテウスは罰として山に鎖で繋がれることとなる。この冒頭から核爆弾といったものを発明し、それによって原子力を始め人類に多大な進歩をもたらした反面、原爆によって多くの人の命を奪ったことから良心の呵責に苛まれることとなるオッペンハイマーの生き方を準えた素晴らしい始まり方だった。

 本作はオッペンハイマーの学生時代からロスアラモスに町を作り原爆の研究を行い、完成に至るまでをカラーで映したシーンと共産党員と付き合いがあったがためにスパイと疑われ、公聴会で尋問が行われていく様子をモノクロで映したシーンが交互に映されながら展開されていく。これが時系列もバラバラで、映画を見ている時はなんでこんな複雑な作りにしたんだ??と考えていた。
 映画を見終えた今、改めてこの複雑な構成について考えてみた。そして、この構成には二つの時間軸のシーンを交互に映すことで、客観的な視点を入れているのはもちろんのこと複雑な構成にする事で淡々と進んでいく原爆の研究するシーンをあえて阻害する役割を持っているように思えた。
 原爆が作られ、完成に至るまでの段階ではオッペンハイマーは殺人兵器を開発しているといった葛藤は強くは描写されていなかった。なぜなら、ドイツが核融合に成功させたニュースを聞いた時点でこのままではドイツが原爆を作ることが目に見えていたからだ。自分が作らなくても、いつかは誰かが原爆を作る。自分の国が犠牲になる前に自分たちが作らなくてはならない。そのような愛国心、または研究者としての技術の進歩ただその感情に突き動かされてオッペンハイマーはひたすら研究を進める。まさに時代がオッペンハイマーに原爆を作らせたとしか言えない状況が描かれていた。しかし、大きな失敗もなく進んでいき結果的に多くの犠牲者を出す実験のシーンが、合間合間に公聴会の様子を映す場面が挟まれることによって観ている観客に考える時間を与える。こんなに淡々と研究者達が進めている実験は取り返しのつかない大きな世界の転換を起こすもので、これは真に人間が行っていいことなのだろうか?冒頭にあったように神にしか許されていない行為ではないのだろうか?と。考える時間が生まれることによってその渦中では気がつけないような視点を持つゆとりが生まれ、より客観的に異常を異常と捉えることのできない戦時中の思考を観測することができる。
 その実験の終着点であるトリニティ実験はまさに世界の均衡が崩れる分岐点を描いていた。原爆がトリニティ実験の成功によってこの世に生まれたことで、今僕たちが生きている世界は脅かされ続けることになりそれは今後も消えることはない。その決定的な現代にまで続く恐怖が生まれた瞬間、研究者達は科学の進歩のため、自国のために作り続けてきたものが完成したため手を叩いて喜びを表していた。このシーンで自分はオッペンハイマーという時代によって原爆を作らなければならなかった一人の研究者のことやそしてその原爆が広島、長崎に落とされ多くの犠牲者を出したこと。原爆が作られるような状況になるまで誰も戦争を止めようとはしなかったこと。様々な複雑な感情が巻き起こって涙を流してしまった。誰か1人が悪いといった簡単な話ではない。オッペンハイマーが作らなくても誰かが原爆を作っていた。しかし、このような悲劇を起こらないようにするためにどうしたらよかったのかと問われて、答えられる人はいるのだろうか。
 トリニティ実験が成功した後、原爆を落とすのは政府が行うと告げられてオッペンハイマーはなすすべもなく他の市民と同様にラジオで日本に原爆が落とされたことを後から知る。トリニティ実験成功後、ひいては原爆が落とされた後からオッペンハイマーは人間に火を与えてしまった罪悪感を覚える。もう引いても戻れない、止めることもできない。なすすべもなく見守ることしかできない無力さが観客に伝わる。化学を進歩させたい、国を守りたいといった1人の化学者としての側面と1人の人間としてこの世を一つの爆弾によって変えてしまった後悔の側面で葛藤している描写は見ていてとても辛かった。

 映画のラストでオッペンハイマーはアインシュタインに、原爆は大気の爆発が連鎖的に広がり爆発が新たな爆発を引き起こす可能性が高いことを告げる。それは世界を滅亡させる可能性のあるものがこの世に生まれてしまったことを意味し、アインシュタインは人間に火が渡され、世界が恐怖に包まれる世の中に変わってしまうことを確信してしまう。
そして、原爆が生まれたことによって世界中が陥れられた恐怖を、地球が核の炎によって包まれていく映像によって喩えこの物語は終わる。

 本作は広島、長崎といった原爆が落とされた被害者側である日本側の視点は一切なく、あくまでオッペンハイマーの視点から映される。しかし、そこにはオッペンハイマーの心理描写は描かれないため、観客も一歩引いた目線で原爆が淡々と作られていく様子を恐怖感を持って観ることができる。
 原爆がこの世に生まれてしまったために世界を恐怖に陥れたのと対照的に、この映画が全世界に公開されたことによって人々の意識が変わり、少しでも良い世界に変わっていくことを祈らずにはいられなかった。アカデミー作品賞は納得だし、皆が見るべき作品だと感じた。ノーラン作品の中でも上位に入ってくると個人的には感じた。