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オッペンハイマーのしののレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
4.8
ノーランが彼の持てる技術を総動員して、そしてある種捨てて、「最高級の映画」をつくった。この事実に平伏せざるを得ない。

何より、ノーランがこれまで描いてきた「世界の見え方が一変してしまう体験はあるのだ」ということを、ついに我々の現実世界の既成事実として提示してきたのが凄まじかったし、ある意味でフィルモグラフィの結実だなと感じた。

ノーランにとって、映画というのは視覚や聴覚、そして時間感覚をコントロールして、現実をある種歪めてしまうということだった。現実をある種、見たいように見せられる。それ自体超面白いよね! ということが毎回作品のコアにある。そしてこれまでのノーランのやり口は、「現実を見たいように見せる虚構のパワーがあるんだ」ということを、まさにそれ自体が主題になるような虚構の物語で語るということだった。

具体的にいえば、映画が現実を歪めて提示するという効果と同様の効果をもたらす虚構の「装置」を作品内にも出して、そのまま世界観や物語として提示するのだ。たとえば『インセプション』では夢共有装置、『ダークナイト』ではヒーローという装置、『テネット』では回転扉という装置。そしてその装置によって、劇中人物の「世界の見え方」が変わるというのが物語の大枠になっている。それは、夢のなかの体験が現実での一歩を踏み出させるということだったり、象徴を打ち立てることで正義を信じられるようになるということだったり、自由意志と決定論の関係を目撃することで自らがこの世界の命運を決定する主人公だと信じられるということだったりする。

この、現実における「世界の見え方が一変してしまう体験」のメタファーを虚構の世界で提示するという流れに対し、別のアプローチをとり出したのが『ダンケルク』だった。つまり、ダンケルク撤退戦という現実のイベントを虚構(抽象)空間化して、実際にその見え方を変化させるということをやったと考えられる。逆に言えば、確かに史実を扱った話なのでフィクショナルな装置みたいなものは直接的には登場しないものの、言ってしまえば抽象空間化したダンケルクの舞台そのものが装置になっているような作りなので、題材だけ借りてそれをノーラン現実に変えたという印象が強い。つまり題材自体は現実なのに、今までと同様「虚構空間で現実認識を変える」の文脈であるように見えた(個人的にはこれがやや中途半端に感じた)。

そこへきて今回の『オッペンハイマー』が凄まじいのは、これまで描いてきた「世界の見え方が一変してしまう体験」を、ついに「現実の個人史」という素材だけで提示してしまったことだと思う。つまりこれまでは、世界の見え方を変える認識変化ってあるんだよ、ということを、虚構の力を借りてある種メタファーとして描いていた。しかし今回はそれが本当に現実に起こる。というか実際に現実に起こったことだし、そして映画を観ている今も起こったでしょ? と提示する作品になっている。これが凄まじい。ノーランの世界観が、自分の生きている現実世界に直結した感覚。なんというか、正夢のような感覚があった。

では今回の「装置」はなにかというと、これは言うまでもなく原爆だ。実際、劇中で爆弾と言いかけた科学者が装置と訂正するシーンがある。つまり、オッペンハイマーにとってあれは装置なのだ。もちろん大義名分はある。ナチスドイツに先に作られたらまずいとか、戦争を終結させたいとか。しかしやはり彼にとっては何より、自分の頭の中にある理論を形にする装置だったのだろう。彼は理論屋だから、世界の見え方を変える何かが頭の中にあっても、それを1人ではアウトプットできない。だからマンハッタン計画が立ち上がるとき、リソースや技術を集中させるという趣旨のことを黒板で説明するシーンは印象的だ。そして彼は実際にチームを招集して頭の中にあったものを現実化させていく。これはまさに映画監督が照明班やら撮影班やら美術班やらを率いて、映画という「装置」を作っていく過程に重なる。

しかし映画のメインはここではなく、その結果なにが起こるかということにある。つまり世界の見え方を変えてしまった結果なにが起こるか、ということだ。

ここで本作が法廷劇であることが効いてくる。法廷劇とは本来、客観的に事実を検証していく作劇だ。それはこの作品が、オッペンハイマーに対して「なぜそんなことをしたのか」「そんなことをすべきだったのか」を見定める視点に立脚しているということでもある。後の歴史を生きている我々観客は、オッペンハイマーが原爆を生み出していく様を、「何でこんなもの作るんだ、これが作られなければ……」という目線で客観的に眺めることになるからだ。

しかし本作が描いているのは、オッペンハイマー自身も「大丈夫か? まずいんじゃ?」という客観的視点を有していたということだ。同時に、あまりに色んな要素が渦巻いていたことも描かれている。彼の危うい性格、交友関係、ユダヤ系としてのアイデンティティ、当時の世界情勢。そしてなにより、自分の頭の中にある理論を形にしたいという抗い難い主観的欲望。たとえば劇中、彼はあくまで科学者だから使い道に口出しできないといった態度で、彼自身の主観に閉じようとすることがある。しかし、彼が主観的に回想しているはずの原爆開発の過程は、映画としてはむしろ主観的なドラマや心理説明を排して客観的にハイテンポで進んでいくような編集にしている。つまり彼自身、これは確実に世界のあり方を変えてしまうんだということが分かっているのだ。そして日本への原爆投下後、彼はいよいよ自身の行ったことを客観視するようになっていく。

言ってしまえば、オッペンハイマー自身の中で主観と客観が分裂している。そしてこの分裂は、本来この映画を客観視しているはずの観客にも発生していくのだ。原爆開発の過程を客観的に眺めていたはずの観客は、気づけばボタンを押すその瞬間に主観的に立ち会っている。これが核分裂(原爆)パートだ。ここで提示されるのは、人間は主観と客観を行き来するものだということ。それはあたかも波と粒子の二重性のように。世界の見え方のミクロで主観的な変化は、やがてマクロで客観的な「変化した世界」を生み出してしまう。それは連続的……もっというと「連鎖反応的」なものなのだ。

そしてオッペンハイマーがもたらした世界の変化は、今や本人不在で、「世界の見え方をどう変えるか」の議論に発展している。これが核融合(水爆)パートだ。つまりオッペンハイマーの主観/客観の外の世界。進行している時系列に対して、常にそれを外から客観視する時系列が存在することを意識づける構造になっている。

しかしこの核融合パートでも、また別の主観/客観の分離が示唆されている。それは主にストローズの物語によって。彼はオッペンハイマーへの個人的な恨みといったミクロな主観で動いていたことが描かれるが、しかしそこには、冷戦に突入するアメリカの情勢というマクロに対し、水爆推進によって力を維持したいという客観の視点もあっただろう。彼のなかでも主観と客観は分裂しているのだ。

こうして、個人の欲望と世界の変化の連鎖反応は、ねずみ算式に増えていく。もっといえば、映画自体がこれまた連鎖反応的に、どんどん主観から客観へ、ミクロからマクロへ変化の波が広がっていくことを示す構造になっている(言うまでもなく、水爆というのは核融合反応を利用して原爆よりさらに爆発エネルギーを高めるという原理だ)。核分裂や核融合の原理を構造化しているのだ。

このように、本作では原爆開発とそれがもたらしたものについて、ミクロからマクロまで様々な視点が入り混じるように描いている。とはいえ、総じて当時のアメリカの主観を描いているとはいえるだろう。だから「原爆被害の実態」というマジの客観を入れると主旨が変わるし、それはむしろ本作の前提なのだと思う。そしてこういう主観を体験することも、愚行を二度と繰り返さないために必要なことだと思う。加害者/被害者というアイデンティティがあるからこそ獲得できる視点はもちろんあるが、そこに甘んじてはいけないだろうし、本気で世界を変えたければ誰もが「当事者」にならないといけない。ここでいう当事者とは、あるアイデンティティによって自動的になれるものではないと思う。アイデンティティに甘んじてしまうと、相手は所詮加害者だとか、相手は所詮敗戦国だとか、そういう思考停止的な他者化に簡単につながる。そしてその他者化は自分に返ってくる。劇中、オッペンハイマーの傲慢さが彼に返ってきたように。誰にとっても他者でない者などいないのだから。

そして重要なのは、あくまでその主観全体をオッペンハイマーという人物の個人史のなかに位置づけていることだ。ストローズのパートによってオッペンハイマーの行為が政治的な争いの文脈に回収され矮小化されたという意見もあるかもしれないが、重要なのはむしろそこに回収されることでオッペンハイマーの行為自体が蚊帳の外に置かれ、もはや「許す/許されない」の土俵にすら立てなくなったことだと思う。それは、トルーマンのオッペンハイマーに対する反応からも明らかだろう。また、ラストでアインシュタインが彼に告げるように、やがてオッペンハイマーは栄誉を与えられ、彼自身も客観的な世界の一部に取り込まれ、そしてまた次の「変革される世界」を形作っていくであろうことが示される。その結果彼が幻視する未来のビジョンなどからも分かるように、真に世界を変えてしまう行為とは、当人のコントロールが効かない連鎖反応を引き起こしてしまうのだ。この不可逆性の恐ろしさ。つまり、こいつがこんなものを生み出さなければ良かったのに、と断罪して「くれる」作品にはなってない。そうやって溜飲を下げることができる構造をとっていないのだ。むしろ世界は簡単に我々を蚊帳の外にしてくるぞという重い問いかけを残すような作りになっている。それによって、逆説的に誰もが当事者になることを迫る作品なのだと思う。

つまりそれは、「オッペンハイマーは神なのか」という問いへの答えでもある。結局、彼は世界を変革しうる個人であり、同時に世界のなかに位置付けられた個人なのだ。実際、本作はオッペンハイマーが聴聞会で目を覚ますシーンから始まり、庭で目を閉じるシーンで終わる。そしてそれは、我々がこの映画をオッペンハイマーと一緒に観ていた、というような体感にも通じてくる。この映画を通じて我々も彼と同様に、主観と客観が分裂し、ミクロとマクロが繋がっていく。

こう考えると、実にノーランらしい「個人の認識と世界の変化」のメカニズムを、主観と客観をひたすら往復運動する映画の作りによって体験させるというのが、この『オッペンハイマー』という映画のコアであるといえる。オッペンハイマーは自身の頭の中にある理論というミクロから、世界に原爆を誕生させるというマクロの変化を起こした。そして我々も実際にこの映画を観て、オッペンハイマーの見た世界に同化していく主観的な自己と、それを映画として眺める客観的な自己が、自身の中に二重性をもって存在していることを発見する。そのパワーと恐ろしさ。

そしてそこには映画体験というものの本質があるのではないかと思う。つまり主観と客観の往復運動だ。客観的に観ていたもののなかに気づけば入り込み、それが主観になっている瞬間がある。その主観がまた次の客観を形作る。観客が映画と対峙することも、個人が世界と対峙することも、そういうことなのではないか。

そしてこれは前述のように、ノーランがずっと描いてきたことだと思う。人間は頭で世界認識を変えうる。そしてそれは現実の世界を変えうる。もちろん、今回は夢共有装置もヒーローも回転扉も出てこない。従って、バカなんじゃないのと言いたくなるような理屈づけの面白さ、画の面白さはある意味で捨てている。立て付けとしては、議論や討論が物語をドライブしていくアメリカらしい法廷劇だ。しかし本作には紛れもなく過去のノーラン作品のエッセンスが込められている。

そしてそれは結果的に本作を、語弊を恐れずにいえば、「普通の名作」にした。それをノーランの映画解釈が下支えしている。自分はここにある種の結実を見た。これがノーランのアカデミー初作品賞、初監督賞というのは綺麗すぎると思う。


※感想ラジオ
『オッペンハイマー』はノーランの到達点!複雑な時系列に隠された映画体験の意義【ネタバレ感想】 https://youtu.be/J0-rk8KT8zY?si=URFU6zLqqMBee-Gk
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