ちゃそ

オッペンハイマーのちゃそのネタバレレビュー・内容・結末

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
4.4

このレビューはネタバレを含みます

私たちは何を見ることができていて、そして何を見ることができていないか。それこそが本作の一大テーマである。

科学者なら目の前にある研究対象を発展させたいという欲求はある。そして、その技術を使いたいという一般市民及び政治家の思惑も「理解している」。そして、与える影響も「わかっている」。果たして本当にそうであろうか。

オッペンハイマーの見立ては甘かった。市民は威力を理解してその政治的利用に怖気付くことはなく、むしろ喜んで切り札として採用した。そして、戦争への使用を実行した。反対する科学者。しかし流れは止められない。科学者たちは開発には携わることができるが、それをどのように使うかに関しては全く決定権がなかった。オッペンハイマー自身も自らの意志に反し、政治的利用に舵を切るアメリカの船に同乗させられることになる。

作中では次第にオッペンハイマーの苦悩が垣間見えるようになる。原爆投下が成功した後に、民衆の前で説明する彼には幻覚が見えている。日本人だけではなく欧米人までもが核の威力の餌食になっている姿。盲目的に原爆投下の成功を賛美する民衆は、明らかに世界の行く末が見えていない。オッペンハイマーは図らずも自らの足で世界の破滅へと歩み始めてしまった。黒く焦げた遺体を踏み抜く描写が非常に象徴的である。間違いなく彼はその責任を負わなくてはならないと、自らが行ったことの「結末の始まり」を意識せざるを得なかったであろう。作中では「世界の終わり」に向かって後戻りが出来なくなることを示唆する発言が数多く出てくる。

本作品ではアインシュタインの振る舞いがオッペンハイマーとの対比に大切な役割を果たしている。「神はサイコロを振らない」と主張したアインシュタインは、原子爆弾の生み出す爆発が大気に引火して世界が炎に包まれるかもしれない、という論文の査読を頼まれた時、「そのような恐れがあるなら敵にその情報を共有して開発を止めろ」とアドバイスを送る。アインシュタインは彼の発見が原爆開発のきっかけとなったという過去の経験と反省を踏まえて、当時のオッペンハイマーにも見えていなかった最悪のシナリオを避ける手段を提示したと取れる。これはオッペンハイマーにとっての「最悪のシナリオ」とは異なっていたことは言うまでもない。結局オッペンハイマーは「0%に近い最悪のシナリオ」を脇に置き、「サイコロを振る」ことを選んだ。実験は成功に終わり、喜んだのも束の間、核爆発によって引き起こされる連鎖反応は別の意味で起こることになってしまったのだ。

クリストファーノーラン監督の作品で頻繁に用いられる「時系列のシャッフル」は、本作品でもとても重要な意味を持つと思う。オッペンハイマーからの視点(カラー)とストロースからの視点(モノクロ)の2つが軸となり話が進行していくが、ともに「法的な裁判ではない」公聴会でのやりとりが話の軸であり、それに沿って過去が描かれる。別々の事象であるかのように見える2つの公聴会は、終わりに近づくにつれて自然と重なり合っていく。プライベートまで全てが明らかになっていき絶望するオッペンハイマー。真実を話してくれる人はいないと感じ、自らの行為が意図せぬ方向に解釈されていく様を私たちは目の当たりにする。これは全てストロースが仕組んだ罠であったことはいうまでもない。しかし、ストロースにもバチが当たることになる。過去にオッペンハイマーを嵌めたことが明らかとなり、立場が苦しくなっていく。結果的に2人が行き着いた先の景色は全く異なっていたが、2人の置かれた状況はうまく対比になっており、作品全体に重厚感を与えている。

何より、カラーではオッペンハイマーの苦悩が感じられる一方で、モノクロでは戦争の英雄として振る舞うオッペンハイマーの姿のみが客観的に映されていることが象徴的であろう。その残酷さを目の当たりにして悲劇のヒーローになろうとした、政治的責任を逃れようとしている…といったストロースの意見も全てモノクロで描かれているが、ある意味行動の細かい意味までわかっていないことの比喩とも取れる。この辺りの細かい描写は上げたらキリがない上に一度では全てフォローできなかったと思う。何度も見直したい理由の一つだ。というより、何度も見ることで理解が深まりより面白く感じられるだろう。

And now I am become Death … destroyer of worlds.

オッペンハイマーは図らずも世界が死と破滅に向かう手助けをしてしまった。ラストシーンのオッペンハイマーの表情は非常に印象的であった。
ちゃそ

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