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オッペンハイマーのCinemanのレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
4.8
こんなにも意味のあるエンディングシークエンスを見たのはいつぶりだろう。
科学と時の情勢の関係の見事な擬人化とでもいうか。
脚本と演出のあまりにも完璧な仕事ぶりにぐうの音も出なかった。

まず思ったのは、この映画はタイトルに反して「オッペンハイマー史」でなく非常に質の高い「アメリカ史」だということ。アメリカでは、自国を形成する優れた作品を永年アーカイブに指定するという。この作品は間違いなく、アメリカという国を見事な精度で表した文化作品として永年保存されるだろう。こういう精度で常に新しく自国を語る作品が出てくる文化の質の高さには舌を巻くしかない。
実在のオッペンハイマーは、後年に原爆の罪禍を全て負って立足されたことへの苛立ちを表明したという。曰く、投下に関しては自分という科学者1人を裁くのではなく、政治や社会の力学全てが総体で裁かれる必要があると。この言葉の成就を見た気がした。

近年は国民国家の枠を超えたグローバルヒストリーをという言葉もよく聞かれる。その趣旨もまた理解するが、こういう優れた「ある国の視点」の提示を見ると、その「ある視点」が相対化されることができるうちは、やはり「ある視点」の物語を語ることに意味があるのだと思った。
逆にいうと、漠としたグローバルよりも相対化を前提とする「ある視点」はより騙りの難易度が高いとも。
しかし、この作品は完璧にやり遂げている。

その相対化という非常に難しい段階に貢献しているうちの一つが、ダウニー演じる政治家の導入。従来であれば、第1章〇〇の視点〜みたいな小説的演出をしそうなものだけど、滑らかに主体人物がスイッチする。
冷戦下の権力闘争の渦中にいることの示し方はいろいろだっただろうが、検事や科学者などではなく、商業と政治の力をあくまで利用して権力へ野心的に立ち振る舞う彼1人を視点人物に選んだことは慧眼だったと思う。
映画らしくシンプルでありながら、何層にも外側を見せてくれる厚みのある演出だった。
ノーランは、設定や舞台の大きさに飲み込まれず、そこに細かな人物の目配りや仕草も綺麗に織り込んでいく。その大胆さと繊細さ、そして現実の出来事と精神世界の整然とし過ぎるほど整然としたバランス感覚はクセになる。
それだけに唯一オッペンハイマーにとっての性の描き方は余分だったのではないかとも思う。含みを持たせすぎなかったのは良かったが、かえってなくても良かったとも。

複雑さをそのままに切り分けすぎずに扱う手腕もこの作品で第一級に研ぎ澄まされている。
平然とした科学者でも、野心に燃える中年でもなく、またそういう英雄」像を私生活の俗で切り崩すという一辺倒なやり方でもなくでもなく。そもそもアメリカ作品が固執しすぎる「ヒーロー」たることを全く気にしていない至極真っ当な作り。
原爆だけでなく、水爆や軍拡競争、その時代にこそ持っていた素朴すぎる正義感、共産主義への..というか組合への関心、科学が手を離れてもたらすものへの恐怖...

ある伝記を書いた人物は、オッペンハイマーの核の部分の相反するところを、ロスアラモスの国家プロジェクトの堅牢さと、彼自身が初期に手元で実験していた小さな手製の装置の対比のようなものといった。
説明が難しいが、この作品はそういう上手い人物・時代の核心の掴み方をしているし、またそのように映画的な絵としても端的に上手く演出している。

これがアメリカ史を語るものだったとすると、次に見ていて思ったのがアメリカ人にとってこの映画の臨界点はどこに見えているのかということ。アメリカで核そしてオッペンハイマーというキーワードは間違いなく冷戦を意味する。そして赤狩りというアメリカ史の暗部。
監督はこの作品の制作動機を、自分たち冷戦下の少年時代を送ったアメリカ人が生涯感じてきた核という存在の人生や世界への抑圧感だといってきた。彼が息子に話すと、息子は自分たちの世代では核は大した存在じゃない、むしろ環境問題が人生や世界を滅ぼすんだといったことが衝撃だったとか。
それでしっくりきた。この作品はまさに、核の脅威の時代に育った人間が、それをクロニクルする視点に支えられていたから。
自分が生涯感じた核の脅威はどこで始まったのか?
核競争の「戦後」か?
戦時中の原爆か?
それとももっと根深いのか?
そういう探り方をしている。
冷戦の火種が戦時中から巧妙に広がっていたことを日本人は忘れがちだ。
アメリカ人にとって..戦勝国にとって、第二次世界大戦以前に20世紀は、仮想敵がナチズムと共産主義を行き来した時代だった。そういう視野の持ち方。
ポツダム会談で同盟国に武器の事前通知をしなければならないから、トリニティー実験の日取りは決まったとか..広島、長崎は目指されたゴールではなく、もたらされた結果でしかなかった。

上映中、広島・長崎での投下シーンの後、席を立った鑑賞者がいた。その心中は図り難いし、想像も共感もできる気もする。
「日本人」が「原爆の父」を見れば、それはあの1945年の壮絶な被害に収斂する。そこに人類の悲劇という文脈があることも真っ当だとも思う。しかし同時に、その間には確かに「日本の文脈」というものがあることを理解しなくてはならない。
この作品はアメリカ史における原爆の位置付けの一つを非常に質の高い表現で示した。
日本がもしこの作品を原爆についての映画と見るならばそう非難するならば、それは日本が「日本の文脈」の物語を語らねばならない。これだけの質と、例によって「相対化」を以て「日本の文脈」を文化的に描き切る力量が今の日本にあるだろうか?と問うべきかもしれない。
この作品は軍拡競争の原理というところまで最後持っていって非常に現代的な問いまで射程に入れているけれど、核の傘にありながら広島・長崎を抱えるという状態の日本は「日本の文脈」として軍拡をどう語れるだろう。そこまで射程に収められるだろうか。これは広島の平和記念館にも投げかける問いだが...
この点からすると、日本はなぜ公開を遅らせたか理由を明確に示すべきだった。単なる政治的「忖度」でしかなかったのか?
被曝経験のある方やその近親者がこの映画を見た場合非常に辛いことは間違いない。であるならば、被爆者のことを思っていたなら、むしろ上映前に警告を入れることのほうが誠実だとも思う。
何も準備できていたように思えない。

原爆のシーンが直接無かったことにには色々な見解が出るだろう。それは真っ当だと思う。
この映画の演出としては理解できた。
一つ、原爆の惨禍の現実は、「物語」などでは受け止められない惨劇だということ。その現実が一ミリでもホンモノとして映ってしまえば、すべての物語の意味を消し去るほどのものだということがむしろ真実なのかもしれない。

広島投下後の演説シーン、様々な思惑の絡み合う尋問の葛藤、演出力に特の感服したシーンだった。

人々はいつか君を赦すかもしれないけど、それは君のためじゃない。彼ら自身のためだ。
この言葉はいろんな意味がある。
権威を持つ多勢の愚かさかもしれないし、「時局」というものの正体かもしれないし、何より自分は自分を赦すのかということかもしれないし。
様々な情勢の絡み合う「時局」に常に生きざるを得ない我々が...その時の判断で行動するしかない我々が、もしかしたら1人で贖罪などできないほどの罪を犯しうる我々がどう生きればいいのか。
恐ろしい結末、恐ろしい映画だ。
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