カカポ

オッペンハイマーのカカポのレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
4.5
何よりも先んじて伝えておきたいのはいかなる理由があったとしても原子爆弾の使用およびあらゆる虐殺は過去未来共に許される行為ではなく、いま現在唯一の被爆国である日本の広島・長崎では民間人を含む死者が21万にのぼったこと、その後被爆による苦しみを受けた人はもっと多いことを誰一人として忘れてはならないということ。被爆国に暮らす者として私には原爆がどれだけの苦痛と後世に渡る怒りと悲しみを生んだかを語り継ぐ義務があるし、さらに核ある世界となった今に生きるひとりの人間として今後のいかなる核兵器の使用にも断固としてNOを示していかねばならない。これが私の核兵器および日本の被曝に対する基本的な考えです。この後の文章はこのことを踏まえた上で読んでください。



私はこの映画を、とても美しいと思った。クリストファーノーランが描きたかった映画の光はこれなんだと、今まで見てきた彼の作品の中でいちばん強くそう感じた。

6ヶ国語を操り大学を飛び級で主席卒業したオッペンハイマー。その才覚はすぐに類稀な物理学の才能として発揮され、彼は瞬く間に科学界の寵児へと上り詰める。
楽譜を読み解くように物理学の理論と戯れ、普通の人間にはできないことを容易くこなし、周囲から尊敬と畏怖の眼差しを向けられる彼の姿は地上に間違えて降りた神のようだったという。彼のずば抜けた才能は、人類に与えられた強すぎる光そのものだったのだ。

しかし、その後オッペンハイマーはナチスドイツへの憎しみから止められない核開発へと突き進んでいく。かつて、人々の目を焼いた才能の光は、いつしか本人の手からこぼれ落ちはじめ、核兵器という名の世界中を焼き尽くすこともできる業火へと変貌した。
そして、もはや自分ひとりではどうしようもできなくなった業火によって、彼自身もまたその身を焼かれはじめる。強すぎる光の後に残されたのは、その光の分だけ濃く、そして現代にまで続く長い長い核の影だ。

オッペンハイマーはその才能を人類に差し出し「原爆の父」としての承認を獲得し、その代償として"世界の破壊者"になった。
つまり、この物語で描かれているのは原子爆弾そのものの恐怖や是非以上に、非可逆的で暴力的な"炎"を人間にもたらしてしまった一人の天才科学者が、自身の手に負えないほどの才能に振り回された結果抱えた自己矛盾なのだ。

脚本もすべてオッペンハイマーの一人称、つまり彼の主観として書かれているのに加えて、劇中でもカラーで撮られた箇所とモノクロで撮られた箇所があり、前者は全てオッペンハイマーの一人称視点、後者は第三者(主にストローズ)の視点として描くことが徹底されている。つまりこの映画はあくまでオッペンハイマーの視点から描いた世界の物語なのだ。ノーランは、そんなオッペンハイマーという光の誕生から破滅までの人生を映画として描いた。そして私はその燃えながら落ちていくような顛末の全てを、物語として美しいと感じたのだ。

かつて科学がもたらす神秘に目を輝かせていた彼は、いったいどこから自らの身を滅ぼし始めていたのか。あえて時間軸をシャッフルするような構成も、その「分からなさ」を加速させるための装置のようにも感じた。
アインシュタインから言われたように「核の危険を伝え全員で止める」という選択肢もあったはずなのに、オッペンハイマーはいつしか転げ落ちるように自らの強すぎる才能で破滅の扉を押し開けてしまった。しかし、振り返ってもその決定的な瞬間がどこだったのかは、誰も、彼自身すらも分からない。

スクリーンの中で、ロスアラモスでの核実験ボタンがいよいよ押されようとする時、私は薄暗い劇場のなかで泣きながら「押さないで、押さないで、押したらもう二度と戻れない」と心の中で何度も祈った。そんな祈りが無駄なことはわかっているのに、どうしても祈らずにはいられなかった。そして映画の中でも、実際の世界と同じように人類は後戻りできない道へと進み始めてしまった。
砂漠に浮かぶ真っ赤な核の火柱を見ながら「いったいどこでなら止まれたんだろう」と、核ある世界に生きることの深い絶望感に襲われた。そして、それについてはオッペンハイマーやあの場に居合わせた科学者たちも、実験成功を祝う心中の裏で全く感じていなかったわけではないのではないかと思う。

日本でこの作品が公開されるにあたり、広島長崎への原爆投下シーンがないことの是非が問われているが、今作が彼の目を通して彼の生涯を描いた作品である以上、原爆投下のシーンを直接的に入れ込むことはやはりできなかったのだと感じた。この映画の主題は"atomic bomb"ではなくあくまで"oppenhimer"であり、彼が実際の原爆の投下によって起きた惨劇を実際に目にしていない以上、講演会のシーンで彼が想像した"死"以上のことを描くことはできなかっただろう。

そして、それは実際にオッペンハイマーが原爆開発にあたり「現実として日本で引き起こされる死」は想像できず、「未来に起こりうる自国民の死」について考えた時にはじめて核の恐怖を感じたことを表しているようにも思えた。
彼は原爆を開発したことで「核のある世界」を作ってしまったことを恐怖していたとは思うが、「日本への原爆投下」を後悔していたかは正直いって分からない。後年水爆実験に反対した理由の中に、原爆被害の実態を知ったゆえの後悔があったと信じたい気持ちは勿論あるが、今となってはそれを知る術も、彼がそういった発言をしたという記録もないからだ。

だからこそ、"そうだった方が良いから"という理由だけで「彼は広島と長崎で虐殺を引き起こしたことを後悔してました。だから原爆は作ったけど後年水爆開発には反対しました」という安易な物語に接収されなくてよかったと私は思っている。本人が思ってなかったかもしれない後悔をフィクションで書かれてもどうしようもないから。だから"オッペンハイマーが見た世界"として、日本の原爆描写がこの映画にないことは、ある種オッペンハイマーという人物を描く上での誠実さだったのではないか。

(後年オッペンハイマーは来日した際に記者への質問に対し「原爆を作ったことは後悔していない、ただそれは申し訳ないと思っていないということではない」と発言し、その記録は残っている)

しかし、映画描かれなかったからといって、その死が無かったことになるわけではないし、この作品の鑑賞を通じて日本から改めて核への警鐘を鳴らしていくことは決して無意味ではないはずだ。
だから私はこの作品を素晴らしい映画だと評価すると同時に、一人の被爆国民としてここに改めて核へのNOの声を上げる。そしてもちろん、現実世界のオッペンハイマーを英雄視したり神格化したりせず、彼が、ひいては人類が核を生み出した責任についても議論され続けるべきだと表明したい。

この作品を物語として楽しむことと同時進行で、私たちはもはや誰も止められない核ある世界、オッペンハイマーという破壊者がもたらした死の世界に生きているのだ。
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