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オッペンハイマーのmiyuのレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
2.5
「仕事をする」というのはどういうことなのか、と考えた。
好きなことを仕事にするとか、社会の中で役割を持つべきだからとか、生きるために必要なものを得るために仕事をするとか、仕事というものに対して、あらゆる向き合い方があるわけだが、そのような、それぞれの個人の中に宿る思想などに関係なく、「為されていく仕事」があるということ。それは独りでに生まれるものではなく、もちろんそれを「する」人がいるからこそ「される」のだが、人々が塊になって仕事をしていった場合、その「する」ということの意味することへの違和感のようなものが生じたとしても、それによってその「する」をどうにか変えるということは難しくなる。
しかもその「する」は、無思考に無気力に行われていく場合ばかりではなくて、寧ろある人びとにとっては意欲を持って、その行為自体やその探求をとても楽しいこととして、やらずにはいられないようなものとして行われていくこともある。ピュアな「好き」に基づく探求心が生む熱量が恐ろしい発明や流れをつくっていく、ということが、大いにある。世の中。
あらゆる仕事がそのような正確を持ちうる。
だからこそ、没頭できないこととか、そういう事に対して疑問を持って、参加できないと感じるような私のような存在は、そういう社会において熱を持てずに難しさを感じることになるのだろうけれど、それはきっと必ずしも悪いことではないのだろう、とも思う。没頭できることや、知を追いかけることへの体力がある人への憧れはいつまでもあるけれど。それぞれの役どころがあるだろう。
私はやっぱり、すぐに客観視してしまう。自分のやっていることについて。それを何故やる必要があるのか、が気になってしまう。そもそもその原初の熱というのが、偽物だからかな。でも、その対象に興味がなくとも、探求することや仕事をするということそれ自体を行為として楽しめてしまう人、努力できてしまう人というのも確かにいる。というか、そういう人って結構多いのだろう。だからこそ、原発のようなおそろしい発明が生じ、使われ得るのかもしれない。
客観視する力、目の前のこと以外にも目が向くというのは力でもあるのだろうと思う。

とはいえかなり難しくてほとんどわからなかった。途中何度か寝てしまった。そして、私みたいな人間が、こういう権威的な人々が塵のように扱う、対象としての世界にいるモノなんだろうな、と感じて悲しくなった。
でも、オッペンハイマーも愛人が自殺をしたときに、たったひとりの死に、心を痛めた。みんなそれでも人間である。その、「仕事をする」という行為の主体としてではなく、自分の、肉体的な人間存在としての感覚もずっと失うべきではないなあ。感情も、しっかりと自分自身の本当に原始のようなところに都度立ち返らないと、ものすごく社会的に形成されてしまい得る。怖い。

人生が、地球を滅亡させてしまうような、たった一度でたくさんの人の命を奪ってしまうようなものをつくってしまったものだった、というのは、どういうふうなものなんだろうなあ。
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