しょうた

オッペンハイマーのしょうたのレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
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冷静と熱狂、正常と異常(狂気)、善意と悪意、それらが葛藤する人間というものを考えさせられる。そして、それらを超越して存在する量子物理学、宇宙の真理なるもの…。
この映画そのものは何か絶え間ない熱狂の中で進行しているように思えた。常に不穏な音楽がバックグラウンドに流れ、原爆開発に向かう熱意と、幸福への希求、背景で暗躍するさまざまな人の思惑…。

フロイトの本ばかり読み、人を振り回した末に自殺してしまうジーノの存在は、オッペンハイマーの影、弱さの部分をよく表していたと思う。(査問会議で二人だけの秘事が暴かれるシーンでは、人々の面前でファックする自身の幻影を見る。)
ストローズの猜疑心の強さがオッペンハイマーを窮地に追い込む。その性格の歪みはどこから来るのか。
そうした、人間の持つ不完全さ、脆さ、そして加害性を映画は執拗に描く。
こうした存在である人間が核兵器を持ってしまったこと、その意味が問われるような気がした。

映画の描く熱狂から距離を置く唯一の人物が登場する。池のほとり、森の中を散策するアインシュタイン。愚者のように描かれるその姿に、わずかな救いが込められていないだろうか。

追記)
映画を見終わって少しして、つい先日、新聞で読んだパレスチナの女性の言葉が思い出された。
「結局のところ、平和がほしいのです。いつ攻撃されるかを心配することなく、ベッドで安心して眠りたい。家族が殺されるのを見たくないのです。」
平和とは、家族が脅かされないこと、ベッドで安心して眠ること…
オッペンハイマーは妻のキティに、核実験の知らせを聞いたら物干し場のシーツをしまうように告げていた。目に見えない放射能の人体への被害を熟知していたからだろう。それはまた、核の使用は本質的に平和とあいいれないものだということを象徴していたようにも思う。

この映画は日本では、原爆を落とされた側を描いていない、と批判された。だが、いや、描いている、表現には直喩と暗喩がある、とアフタートークで森達也監督が語っていたことに頷く。
オッペンハイマーは、原爆が戦争を終わらせたと盛大な歓呼で自分を迎える群衆の場面で、一人の若い女性が肌の剥がれおちる被爆者の姿をしている幻影を見る。このショットは衝撃的であった。
そして、この若い女性はクリストファー・ノーラン監督の実の娘が演じていると聞いた時(アフタートークでも触れられたが、「クローズアップ現代」でも語られていたと後で知った)は驚いた。ノーランは娘とこのシーンの意味、原爆が落とされたことの意味について語り合ったのだろうし、父として娘が被爆した時のことをまざまざと感じながらこのシーンを作り上げたのだろう。核の使用が人間に何をもたらすのか、「自分ごと」として受け止めた経緯が伺える。

更に付け加えれば、アメリカ国内で批判されたのは、ロスアラモスで核実験を行うために先住民が立ち退かされたこと、また被曝させられたことが描かれなかった点だったという。幾重にも罪深い人間の近代史。
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