ぼさー

オッペンハイマーのぼさーのレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
3.7
政治的な闘争のなかで翻弄されるオッペンハイマーを描くことでオッペンハイマー博士の人物像と当時のアメリカの時代感を描写しようとした作品。
作品単体は史実を踏まえて"物語をこなす"感が優先されていて決してしみじみと面白いとは感じるような作品ではなかった。ただ、僕の私的な体験を呼び起こしたことで、とても感情的で希少な鑑賞体験になった。

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僕は共働き家庭に育ったので小学校に入ると家に帰宅せずに学童クラブで夜まで過ごす生活を送っていた。学童クラブと併設されている児童センターでは毎年8月に入ると広島と長崎の原爆のドキュメンタリー映画やはだしのゲンの実写映画などを鑑賞させられた。

小学一年生から三年生まで毎夏に焼けただれた被爆者の映像や写真、そしておそろしい口調のナレーションを視聴し続けたことで、一人でトイレや風呂に入っている時など、映像や音声がフラッシュバックして恐怖で身体がすくむようになった。そのフラッシュバックによる恐怖状態は小学生6年生まで毎日続いた。男なのに恥ずかしいことだと感じて誰にも相談できなかった。
現代ではそれをPTSDと呼称して何らか手当てしてもらえたのかもしれないが、当時はそういう症状が浸透していなかった。

小学6年生になり、その恐怖症状と真面目に向き合ってみた。ずっと原爆で被爆した被爆者の姿に恐怖を感じていたのだが、被爆者はいちばんの被害者である。そんな被爆者の姿に恐怖を感じることはものすごく失礼なことだという道理に気付いたのだ。被爆者は僕を怖がらせようとしてあの姿になったのではない、一方的に酷い目に遭っているのに、僕からさらに恐怖の対象とされるなんて、こんな悲しいことはないと気付いたのだ。

そうして5年以上続いたPTSDの症状は全くなくなった。当時は親や友人含め誰にも話してないことなので自己完結で解決できた体験だった。

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本作では、オッペンハイマーが科学者達をスカウトしていき、プロジェクトを軌道に乗せ、トリニティ実験に至って、手に汗握る高揚した様子が描かれる。僕はこの描写を見ながらプロジェクトXを見ているときのような興奮状態になり気持ちが高ぶった。僕自身のPTSDを引き起こす原因となった爆弾の、その開発プロジェクトをワクワクしながら見ている自分。そんな心境でこのあと広島に爆弾を落とす物語を見続けていいのか?
そんな戸惑いを心の内にとどめながら作品の進行を見守った。

そして、広島に爆弾が落とされたとの知らせがオッペンハイマーに届いた。悲しいシーンでも何でもなくただの経過のシーンだったのだけど、よくわからないが僕は目から涙が流れ出てきて頬を伝わっていた。
いつもの感動や悲しみの涙は熱い液体なのに、この時は冷たいしずくが何度も頬を伝う。涙を伝った頬が空気に触れて冷たく感じた。人生初めてかもしれないくらい普段とは異なる涙だった。

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僕は被爆国に生まれ育ったけれども広島や長崎の被爆当事者ではない。そんな僕が爆弾投下に涙する。悲しさや被爆者への同情からではない。どんな心境であるか自分でもよくわからなかったが、爆弾投下の事実を拒否したい心境に近いと思う。抗えない事実を何とか拒絶したいが、それは実行されてしまったという虚しい心境だ。

高揚していたトリニティ実験とは対照的に、爆弾投下以降のオッペンハイマーの描写を見ていると、彼も爆弾投下の事実を拒絶したい、無かったことにしたい、という虚しさに心境が変化していったように感じた。実際の彼の苦悩の深さや強さは僕には想像もできないが、映画の中での彼は理論で作り上げた爆弾が生身の人間相手に使用され、その結果の数値や映像を目の当たりにしてやっと核爆弾の恐怖を感じたように見えた。
僕が小学生の時に僕の精神を圧倒し生理的恐怖を生み出した根元たる原爆という存在。その原爆がこの世に存在することから逃れたい気持ち、無いことにしたい気持ち。
そういう拒否感が劇中のオッペンハイマーの心情とシンクロした感覚があった。

そうやって僕は自分の体験と映画の物語を重ね合わせることができた。客観的に見て心に刺さるようなエモい作品ではなかったけれども。
ぼさー

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