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オッペンハイマーのambiorixのレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
4.4
【これは原爆映画ではない、アメリカ人の同調圧力についての映画だ!】

遅ればせながら、クリストファー・ノーラン監督の最新作『オッペンハイマー』(2023)を見てきました。しかし、いざ見終わってみると書きたいことがあんまり思いつかない(笑)。なぜ本作を語ることがこんなに難しいのかといえば、この作品がまごうかたなき「伝記映画」だからなのでしょう。ただ伝記的事実をつらつらと述べたてるのでは単に話のあらすじを書いているだけになってしまうし、実在した人物にむかって「コイツはあの場面でめちゃくちゃ苦悩していて〜」などと註釈をつけるのもためらわれてしまう。なので、本レビューでは伝記映画としての『オッペンハイマー』を語ることをきっぱりと諦め、おもに2つのポイントを詳しく掘り下げてみたいと思います。「映画が原爆をどう表象しているのか」という問題と「アメリカ人の同調圧力」の問題です。

・ノーランも加担していた「核の矮小化」
本作『オッペンハイマー』が全世界で公開された際にもっぱら指摘されたのが「原爆描写のずさんさ」でした。無理もありません。本編の中には原爆の被害に苦しむ広島や長崎の人たちの姿はおろか、原爆を投下する瞬間の映像すら映らないのですから。これでは「戦勝国の人間は原爆の存在を過小評価しているし、日本に原爆を落としたことについてなんの責任も感じておらないのだ」と早合点してしまうのも仕方がないところではあります。

実際にアメリカの映画で描かれる核爆弾や放射能の描写には、思わず首を傾げてしまうものが多々あります。たとえば、俺の生涯ワースト映画のひとつでもある『月のキャットウーマン』(1953)は終戦からまだ8年しか経っていない時代の作品ですが、冒頭にこんな場面があります。主人公たちの乗っているロケットの原子炉で火災が発生し、放射能が漏れ出してくる。彼らはその放射能をあろうことか、その辺に置いてある普通の消化器で消し止めてしまうのです(笑)。なんなら「アチチ」かなんか言いながら被爆した指を舐めているという(笑)。まあこれはあくまで低予算のSF映画なので、こういう場で引き合いに出すのはあれかもしれません。しかしながら、この手の描写はハリウッドのメジャースタジオがビッグバジェットを投じて作ったブロックバスター作品のなかにもたびたびみられます。

その最たる例が、クリストファー・ノーラン自身が手がけた『ダークナイト・ライジング』(2012)です。物語の終盤、バットマンがラスボスの手から核爆弾を奪還します。けれどもタイムリミットはもう目前に迫っている。しばし逡巡した末にバットマンは「核爆弾を10キロ先の安全な海上まで持っていって爆発させる」という選択肢をとるわけですが、これも明らかに核の威力を過小評価しているとしか思えない。「飛散した放射能が街まで届いちゃうんじゃないの?」「そもそも10キロ程度じゃ安全でもなんでもないんじゃないの?」などといった、当然湧き起きるであろう疑問に対する想像力をこの映画は絶望的に欠いてしまっている。ここまで書けばもうお分かりでしょう。われわれが本作『オッペンハイマー』の原爆の描き方に違和感をおぼえてしまうのは、これまで無意識のうちに刷り込まれてきた「西側の人間たちの核や放射能を軽視する価値観」を参照しながら映画を見ているからではないか。そういう観客からすると、「やっぱりノーランは原爆をなめている」ということになってしまうわけです。

・見たものを描き、見なかったものは描かない
ここまでが、世界で唯一の戦争被爆国である日本に生まれた人間としての意見です。ところが「いち映画ファン」であるもうひとりの俺は、これとはまったく違う意見を持っているんですね。つまり「本作における原爆の描写はそのほとんどが正しい」という見方です。

たとえばこれが、原爆ドキュメンタリー映画などと銘打って作られていたならば、原爆を題材にした映画なのに原爆投下の場面や原爆で被害を受けた人たちが画面に映らないのはおかしいだろう、ということになるわけですが、冒頭で申したように本作は伝記映画です。原爆そのものを取り扱った作品ではなく、あくまで「原爆の父」たるオッペンハイマー個人の生涯を描いた作品なので、そこから外れていく要素に逐一スポットを当てていくような総花的な描き方をする必要はないし、もっといえばオッペンハイマーが実際に見なかったものを描く必要はないとすら思っています。実際にノーラン監督は、主人公のJ・ロバート・オッペンハイマーの視点から見たショットをカラーで表現し、オッペンハイマーを敵視するルイス・ストローズの視点から見たショットを白黒の画面で表現している。このことはつまり、ノーラン監督が人物の主観を重視していることに他なりません。

この見方を採用するならば、オッペンハイマーは原爆が落ちた瞬間を見ていないので投下の場面を懇切丁寧に描いてやる義理はないし、原爆で被害を受けた人たちを目の前で見ていないので彼らを描く義理もない、ということになるわけです。たしかにこれを被爆国の観客の目線から見れば、かなり不誠実なものに映るかもしれない。ただしもう一度言いますが、登場人物の主観にとことん忠実な演出をしているという点において、ノーラン監督は映画作家としてこの上なく真摯な作り手なのです。

・アメリカ人の後ろ暗さを追体験させる
以上のことを完璧に例証してみせた素晴らしいシーンがあります。暗い映写室のような場所にオッペンハイマーと鑑賞者たちが座っています。彼らが見ているものは画面には映らないのだけれども、ナレーションの内容からそれがどうやら広島や長崎で原爆の被害に遭った人たちを映し出したスライドだということがわかる。オッペンハイマーはその写真のあまりのむごたらしさに顔を背けてしまう。ここはおそらく本作でもっとも批判されやすいポイントのひとつでしょう。被爆者たちをスクリーンの上に表象することから逃げているわけですから。ところが先ほども書いたように、本作では「主観で見なかったものを描かない」という語り口をとっているので、この描き方でまったく問題がない。

それどころかむしろ、この場面には被爆者の軽視などとはまるで違った狙いがあるのではないか。つまり、残酷な写真から目を背けたオッペンハイマーと同様に観客もその写真を見ないことによって、オッペンハイマーの感じる罪悪感を観客に追体験させようとしている。もっといえば、「自分たちは原爆を落とした国の人間なんだ」という事実と否応なしに直面させられるアメリカ人の後ろ暗さこそがここで描きたかったことなのではないか。本作『オッペンハイマー』はこの「後ろ暗さ」という感情に焦点を当てているようにも思えるのです。

・「赤狩り」という名の集団ヒステリー
ここへきてさらにぶっちゃけたことを言ってしまいます。「そもそも本作は原爆映画ですらないんじゃないのか?」と。というのも、実際に本編をぶっ続けて見てみると、原爆の要素があんまり印象に残らなかったんですね。その一方で強烈だったのが「赤狩り」のイメージです。

本作『オッペンハイマー』は2つのタイムラインを持っています。オッペンハイマーがマンハッタン計画を指揮し、ロスアラモスでトリニティ実験を成功させたのちに原爆が日本に投下されるまでのいきさつを描いた戦前・戦中のライン。そして、原爆の父として時代の寵児に躍り出た彼がストローズの謀略にはめられ、共産主義者として糾弾されるもようを描いた戦後のラインです。映画はこの2つの時系列を自在に乗り換え、行きつ戻りつしながら進行するわけですが、オッペンハイマーとは別にストローズの主観視点がわざわざ用意されていることからもわかるように、ノーラン監督は明らかに後者の赤狩りのくだりに重きを置いています。

そしてこの「赤狩り」についてですが、正直なところ何度見ても何度解説を読んでもさっぱり意味がわからない(笑)。しかし、オッペンハイマーを告発した動機が単なる私怨でしかなかったストローズの例に顕著なように、赤狩りの渦中にいた追及者ですらもおそらくそういう気持ちだったのではないでしょうか。事後的に遡ってみてもそれがなぜ起こったのかがよくわからない。この状況はまさに集団ヒステリーそっくりです。

・仮想敵を欲望し続ける国アメリカ
前に書いた『愛にイナズマ』(2023)のレビューのなかで、「エコーチェンバーやカルト宗教はやたらと仮想敵を作りたがる」ということを指摘しました。統一教会がサタンを、ネトウヨが韓国や中国を憎むようなものです。このメカニズムは集団ヒステリーを起こしたアメリカ合衆国そのものにも当てはまるのではないかと思います。ようするに、わかりやすくブッ叩けそうな負い目を持った仮想敵をでっち上げて、「俺たちは正義であいつらは救いようのないゴミなのだ」ということをみんなで確認することでもって、アメリカの国体としての連帯感を高めるのが赤狩りの目的なのではないか。本作の聴聞会や公聴会の場面では、オッペンハイマーの女性関係のだらしなさや人付き合いの下手さや大量殺戮兵器を生み出した過去、といった本筋とはあまり関係のない瑕疵をネチネチ攻撃することによって、彼をキャンセルしようとしている。

重要なのは「仮想敵が必ずしも実体を伴っている必要はない」という点です。オッペンハイマーは実際に共産主義者やソ連のスパイでなくていいし、ストローズが公衆の面前でオッペンハイマーに恥をかかされた出来事すらもはや必要ない。みんなの嫌われものを一緒に叩いて溜飲を下げることがここでの目的だからです。「世界でもっとも偉大な国」というマッチョファンタジーを維持するために仮想敵をたえず欲望し続けること。この構図はわれわれが一般的に思い浮かべる「自由の国アメリカ」や「個人主義の国アメリカ」といったイメージとは真逆です。同調圧力の国アメリカ。他人の顔色をチラチラ窺うアメリカ。

・ノーランは何を描きたかったのか?
赤狩りは現代の社会にもかたちを変えてしぶとく生き延びています。おそろしいのが、仮想敵として狙われるターゲットがその時々の世界のパワーバランスによってコロコロ変わってしまうところです。たとえば、いまリアルタイムで起きているイスラエルのパレスチナ侵略。少なくとも俺の目にはイスラエルが悪いようにしか見えないのだけれども、富裕なユダヤ人が発言力をもつアメリカで同じような発言をすると「お前は反ユダヤ主義者だ」というレッテルを貼られてしまう。けれども俺はべつにユダヤ人を嫌悪しているわけではなく、戦争や侵略行為を嫌悪しているだけなのです。「反ユダヤ主義者として名指された人間が実際に反ユダヤ主義である必要はない」聴聞会からアカ扱いされたオッペンハイマーと同じですよね。映画界においても、イスラエルの行為を非難した監督が解任されたり、俳優が決まっていた役を下ろされたり、というようなことが相次いで起きました。支配的なものの見方に与しない人間を「敵」とみなして容赦なくパージしていく同調圧力のシステム。この事件と赤狩りとはいったい何が違うのか?

ノーラン監督が本作『オッペンハイマー』で描きたかったのは、アメリカ人たちができれば目を背けておきたかったであろうトラウマや同調圧力や虚偽瞞着といったものの実態をえぐり出して相対化し、それを現代の社会に向けて逆照射することだったのではないか。しかし、ここまで書いたところで初めて知ったのですが、クリストファー・ノーランってイギリス人だったのかよ!(笑)
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