阿房門王仁太郎

オッペンハイマーの阿房門王仁太郎のレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
4.5
 核兵器が世界を焼き尽くす想像で締められる作品だが、自然と寧ろ幾分の朗らかさと希望を感じさせられた。
 何故なら、この映画にはある意味でのオッペンハイマーの「勝利」が描かれているからだ。
 オッペンハイマーは世界の深遠さに対する恐怖、教授に対する殺意にまで高まる怒り、色欲、使命感と言うよりは思想的なステイタス、功名心から参加した共産主義活動による高揚とスティグマへの後悔、自然科学の功績と仲間をナチに殺される憤りと言った若い感情は、彼を自然科学者からマンハッタン計画主任と言う「事業家」に替える。
 投下に纏わる議論まで、ある種の「事業のスパイス」に変えて、楽しんでいた彼であるが、改めて自分等の創った原爆が市街地で利用されたと言う「事実」に打ちのめされ、自らの手が血まみれである事を実感する。然し、共にそれを心底悔いる仲間はいない。だから彼は孤独にそれを悔悟し自分の過去と向き合う。
 その過程で彼にはカルンニアが付きまとい、己の贖罪の為の核軍縮の記念は単に「ソ連のスパイだから」という政治的な領域の話(おまけに根も葉も無い)に貶められる。詰り、彼を平易に理解する者はやはり絶無であり、その過程が彼をさらに苦しめる。
 果たしてオッペンハイマーは己に降りかかる誣告を退ける事に成功するのだが、それでも罪悪感は消える事が無い。故に名誉の回復とは別の領域でマンハッタン計画の主導者と言う罪悪感を抱き続ける事になる。
 然し、この苦々しい悔悟の生涯こそ、逆説的にオッペンハイマーによる(軍拡)社会への勝利である。詰りは、相互認証破壊という単純で世界を単に計算、操作可能とする世界観に対し飽くまでオッペンハイマーは己の捜査不可能性、心理の複雑さで以て立ち向かう。その過程で本人は傷ついたかもしれないがその血の赤さが、如何なる実質的な政治判断より我々の世界の危機(核戦争)を告発し、それへの対抗を呼びかける。いわば、彼が誹謗や苦悩と言った経験により「負け」を不可避的に重ねるほど、却って彼と言う渓谷は深さを増し、より強く敵と立ち向かえるようになっていっている。詰り、オッペンハイマーの苦悩はある種の撤退戦であり、裏返せば核兵器に対してはそのような戦略しか無いのだと我々に警告しているようでもある。
 私は『オッペンハイマー』の時間的な錯綜や主題を観て、『WATCHMEN』の第9勝を思い出した(特異な時間表現にもそれを感じた)。この章ではローリーと言う比較的「下らない」人間がDr.マンハッタンとの対話(精神分析的な)を通して、自分が最も嫌がる形で「無価値だった」と認める事で逆にマンハッタンが人間の奥深さに気づき、それへの信頼を回復させると言ったものである。私は『オッペンハイマー』で同じことを感じた。
 オッペンハイマーは途中で人間が核兵器に肉体、心理の両面で余りにも強い事に気づき、一人でそれと立ち向かい、傷ついていく。その最中には彼個人過去を抉られる辛苦や共有できない危機感に苛まれ続け、一人で闘い続ける。そこにあってはミクロな敗北に満ちているが、その全体的な道程はどちらかと言えば価値に近いだろう。この映画は「ミクロで敗けているからこそ、逆説的に勝っている」との故事を思い出すのにうってつけだし、この映画のお陰で人間に備わる報われない責務の履行に対する尊敬故に、オッペンハイマーが苦しんでいる故に彼の予想は外れねばならない、世界を滅ぼさないに、ある程度彼の孤独で崇高な苦しみを肩代わりしなければと思えるのだ。
 世界を焼き払う科学技術に対する人間の心理の抵抗が、仄かにだがめらめらと描かれた映画だったと思う。
阿房門王仁太郎

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