黄金綺羅タイガー

オッペンハイマーの黄金綺羅タイガーのレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
1.5
重い、くどい、長い。
重いというのは、内容やテーマがっていうよりは胃もたれする感じというのが妥当であろう。
なんだか肉汁なくてパサパサな割にもったりとした脂身の多いステーキをケチャップ味のソースで細切れにして大量に口に詰め込まれた感じがする。
アメリカの映画の悪いところ出てるよ! というのが僕の感想である。
これはなにもアメリカの映画が全般的に悪いと言っているわけではない。
アメリカの映画でも寝る前に指折り数えてワクワクしながら公開を待っているものもあるので、むしろ好きなものも多い。

本作が個人的に受け付けないところは、いくつかある。
お金使いましたよ! 撮影的に難しいことしましたよ! 音響で迫力出しますよ! でも肝心なところは音響にメリハリつけてオシャレ感出してますよ! わかりやすい話を時系列細切れにして、わかりづらくして小難しいこと語っているようにしてますよ! 歴史の重厚な話をドヤ顔でやって、ケネディとかの名前も出しちゃうあたり知的でしょ? っていうのが受け付けない。

原爆が開発されていくところはすこしスリリングではあったが、その後の冷戦の時代の法廷闘争的な話が特にダルい。
オッペンハイマーの光と影的なアレを描きたかったのだろうけれど、とくに後半のシーケンスは情報量が多すぎる割にテンポも悪くて、厨二病の子の作ったラノベの設定を延々聞かされている気分でダルい。
まだ終わらないの? と何回か思った。
それになんだか伝記というわりに、全然オッペンハイマーに感情移入できない。
というか、そういう造りにしていない。

あとちょっとアメリカの原爆の認識についての違和感については前々から思うことがある。
以前広島で原爆についてのシンポジウムのようなもので、アメリカの女性が原爆のことをアメリカは日本に対してひどい大罪を犯した的なことを痛切に語っていたことがあったのだが、個人的には正直ピンときていなかった。
というのも、別にその女性が原爆落としたわけでもなければ、僕が原爆落とされたわけでもない。
拡大解釈して考えれば、そのアメリカ人女性の親戚が原爆を落としたのかもしれないし、僕の親戚が犠牲になったのかもしれないけれども、だからといってもその女性にそんな感情込められて謝られてもなんか違うとは思っていた。
それに世界大戦というものは、誰かがはじめから絶対悪だから始まったというわけではないだろうと思う。
それぞれの立場での主張と対立があったから始まったことだと思う。
あのときの日本は原爆を落とされなければ引くに引けないところまで来ていたということもあるのだろうとも思う。
だからといって原爆を落とすという行為が正しいとは思わない。
しかし、そこで実際に原爆を落とした人やその決定をしたトルーマン、またはオッペンハイマーのような開発した人など、特定個人や特定の国を責め続けるのが正しいとも思わない。
むしろオッペンハイマーが作らずともいずれ原爆はできていたわけで、原爆は彼一人の罪というよりはそれを作るように意図してきた人類全体の罪であるように感じる。

それに日本人という人種は幾多の地震、津波、噴火、台風など、ありとあらゆる自然災害に遭いながら、それと同時に自然から恩恵を受けて生きてきたのだ。
だからそういった人のどうこう出来る範囲を超えた力に対して、感謝と畏怖と諦観を抱いて生きてきたように感じる。
だから原爆に対しても、あれは仕方がないことだったと戦争に関わってしまった我々の罪と罰として粛々と受け入れてきた部分はあるように感じる。
しかし一方で、その受け止めきれなかった悼みや理不尽、恐怖をゴジラとして表し、救済を求める先をウルトラマンとして表し、想像力によって悼みを昇華して乗り越えようとしてきたと思っている。
(ゴジラ×コングってどういうことなの? アメリカのそういうデリカシーのないところ、ほんと嫌いだわー)
それなのに、いつまでもアメリカが原爆は悲劇でー、と過剰に言うものだから逆に日本はいつまでも許されない気分になる。
「アメリカは日本に対して歴史的な悲劇を引き起こしました。でももともとは太平洋戦争が起こったのは日本がキッカケでー、原爆落としたのもいつまでも日本が降伏しないからでー…」といつまでも言われている気分というか…
むかしはいろいろあったけど、いまは仲のいい友だちだけれど、時々出してくるコイツのこういうところホント嫌いだわー、という感覚に襲われる。

まあ、それは個人的ないちゃもんだとしてもだ、核は使われないまでも核が開発された後でも未だに世界各国で戦争が頻発しているわけで、核の脅威があったところで戦争は止まない。
それに核を使うことがどういう結果に繋がるかは核保有国はわかっているはずだし、そうだと信じたい。
だから核など(一部の奇天烈な国を除けば)決して使われない切り札なのだ。
それにこの状態で世界の均衡を破り、核を使った国には過去類を見ない制裁があるだろう。
それは核保有国でなくても世界全体がわかっているはずだ。
冷戦が終わり、その後のいくつかの戦争を経た今、それはもう分かりきっている事実に感じる。

だから、そんな現代において核の炎が世界を覆うみたいな終わり方をしていること自体がもはやナンセンスというか、核の脅威を結局アメリカの大好きな『デイアフタートゥモロー』的なSFパニックのような終わり方にしてエンタメにして茶化しているじゃん、とも思う。

たしかに核が使われることは100%ないとは言えないけれども、なんだか今わざわざこんな映画にして語る必要もないし、他に目を向けることはいまの世界にはたくさんあるんじゃないかとも思っている。
本作の内容を現実感を持って受け止めるには、公開が20年くらい遅かったんじゃないか、と僕は思っている。