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オッペンハイマーのmのレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
5.0
まずこれは本当に語弊があるとは思うんだけど、率直に言って凄まじく面白い映画だった。間違いなくクリストファー・ノーラン最高傑作だと思う。

プロメテウスになってしまった男と彼がモーツァルトで自分がサリエリだと勘違いした男、それぞれの失墜の物語にしてパンドラの箱を開けてしまった男の償えない罪の物語。それをカラーでオッペンハイマー側視点の『FISSION(核分裂)』パートとモノクロでストローズ側視点の『FUSION(核融合)』パートの2パートをシャッフルしつつ時系列も感覚的にバラしてミックスしながら全編会話劇の3時間を猛スピードで駆け抜けていく。2部構成どころかもはや実質4部構成みたいな倒錯し切った構成なのだけど、これが感覚的・理論的にシーンがきちんと全て呼応していき調和していく。ここまで複雑な構成なのに一切の混乱を生まないまま映画全体が一つの交響曲のように綺麗に高みを目指していく。オッペンハイマーとストローズそれぞれの視点の軸が互いに呼応しあい有機的に絡み合いつつ、本来とっくに辿り着いていた終着地へと完璧に美しい線を描いて辿り着く。脚本・編集の凄まじさ!どういう思考回路でこんな構成ができたんだろう。
そのスピード感と情報量故に少しでも気を抜くと付いていけなくなるので、観客にも相応の集中力が要求されるのだけど一方でちゃんと観ていればちゃんと付いていけるように作られている。そこが良い。映画との全力の追いかけっこに久しぶりに映画的快感が芽生えた。会話劇で3時間ここまで知的に見せ切るのは本当に凄い。

何度でも書くけど凄まじいスピード感で疾走する映画ながら、決して駆け足感やダイジェスト感は無く、登場人物達それぞれの心情やドラマ・ハリウッドらしからぬ人間としての白黒付けられないグレーさや曖昧さをしっかりと観客に印象付けていく。それは演出の見事さの賜物であり、俳優陣のアンサンブルの賜物でもある。
流石の演技力で人間臭いオッペンハイマー像を繊細に完璧に体現したキリアン・マーフィーを中心に、脇を固める一人一人が個性豊かで強度があり、それが多数の登場人物が入り乱れるにも関わらず混乱しない理由の一つだと思う。
例えばなんであの小さな役がラミ・マレックなのかというと、僅かな登場時間で脇役Aのように扱われるにも関わらず最終的に重要な役割を果たす役故に短い時間で観客に印象を残す必要があり、それを踏まえて彼が起用されている。他の役も全てそうで、全ての役の俳優が適材適所で配置されていて、俳優達自身も生き生きと役を演じ切っている。このアンサンブルの強さが映画の強度に結び付いている。
キリアンと実質W主演のロバート・ダウニー・Jrはエゴとスター性と魅力とを発散しつつ弱さも見せる素晴らしい演技。
エミリー・ブラントには明確に見せ場が幾つかあって、そこの強さが流石の良さで彼女のキャスティングに納得。
個人的に特に気に入ったのはテラー役のベニー・サフディ、ラビ役のデヴィッド・クラムホルツ、ローレンス役のジョシュ・ハートネット!この3人は本当に良かったな・・人間味や複雑な感情を感じさせて素晴らしかった。
粗暴だけど一貫して力になってくれるマット・デイモン、主人公に対する悪役として瞬発的に強い印象を残してくれるジェイソン・クラーク&デイン・デハーン&ケイシー・アフレック&デヴィッド・ダストマルチャン、短い登場時間で情念や哀しみを感じさせるフローレンス・ピュー、味わい深いアインシュタイン役のトム・コンティ、と他にもまだまだ書ききれないくらい俳優陣の良さ心に残る。そういう面でも素晴らしい映画だと思う。
あと個人的にカール・アーバン版「ジャッジ・ドレッド」のヒロイン役オリヴィア・サールビーや、「ザ・ボーイズ」の主人公ジャック・クエイドに「アーミー・オブ・ザ・デッド」の金庫破りマティアス・シュバイクホファーとジャンル作品からキャストが引っ張られてきていて各々きちんと印象を残しているのも良かった。ノーランやっぱりああいう映画好きなんでしょ?



Twitterでも誰かが書いていたけどポイントは愛人の自殺に動揺するオッペンハイマーに妻が告げる『罪を犯しておいてその結果に同情しろというの?』という言葉で、それがそのまま原爆を作り上げた男の罪を指し示す。オッペンハイマーを責める憎たらしいジェイソン・クラークの言葉にも時に正しい言葉があり、それがオッペンハイマーの心を更に責める。この映画はオッペンハイマーに同情しない。原爆の被害の描写が無い代わりに、オッペンハイマーは自分の栄光を讃える場で火傷や黒焦げの遺体を踏む様を幻視しては怯えて、そして実際の広島の写真から目を背けてしまう(ラストシーンの暗転する瞬間にも御注目を)。描かないという事は作り手がそこから逃げている訳ではなく、今も核の本当の危険性や罪から目を背けている人類の罪そのものを描こうとしているからだと俺は思う。

東京大空襲で一般人が大量に死んでいるのにアメリカ国民が気にしていない事に軍部が懸念を示す描写はこれまでのハリウッド映画には見られなかった自己批判的なもので、そういう所にイギリス人監督ならではの視点がある。「ダンケルク」のラストを小さな小さな溜息で終わらせたノーラン監督の意志は今作でより強く現れている。


IMAXフィルムで撮られたホイテマの画にはどこか艶っぽさがあって、それがこの3時間の会話劇にまた別の求心力をもたらしている。
音楽の圧倒的な素晴らしさも映画を高めていて、ルドウィグ・ゴランソンの相変わらずの芸域の幅広さには恐れ入るばかり。


フローレンス・ピュー絡みのシーンで、エミリー・ブラントがセックスを幻視する描写は正直陳腐なのでやらない方が良かったと思う。それと濡れ場になる前のピューさんの『私も揺れていたいわ』という台詞→騎乗位という流れは流石にギャグみたいでちょっと苦笑してしまったのだけど、これは字幕の和訳がしくじっているのではという気もするので確かめてみたい。


脚本のト書きって普通は第三者視点で簡潔に書くもので、例えば『オッペンハイマー、グラスを手に取る。』みたいな文になるんだけど、この映画の脚本はオッペンハイマーのパートは完全に一人称で書かれていて、例えば『私はグラスを手に取る。』みたいな文体で終始書かれている。これはそれだけ普通の映画よりも主観的な作品を目指しているという監督からスタッフ・キャストへの意志表示なのだけど、そうした逸話を聞いた一方で実際映画を観てみたら、オッペンハイマーの主観に入り込みつつも監督の視点は題材や罪に対してきちんと客観的であり続けていると感じた。そこに監督の知性があり、観客の知性への信頼がある。



以下は映画自体とは少し違う話をします。

この映画のアンサーは日本から作られるべきという意見は同意したい所だけど今の日本映画界にはそれを担える監督や脚本家やプロデューサーがいないと思う(そもそも「この世界の片隅に」とか「ひろしま」とか「TOMORROW/明日」とか既に作られている)。少なくともそれをやるべきなのは勢いに乗ってる山崎貴では100%無い(ゴジラフィーバーでみんな忘れてるけどあの「永遠の0」撮った人ですよ?100田のあれですよ?ゴジラマイナスワンの戦争への思想も大概薄っぺらだと思うけど)。
というかそもそも核兵器禁止条約に調印せず締約国会議に参加もしない、武器輸出解禁に精を出す、右傾化しきった今のこの国というか私達に、それをやる資格があるのだろうか。今の私達にこの映画を弾糾する資格はあるのだろうか?世界唯一の被曝国である事を自分達で普段忘れてない?という事も一旦自分の中でよく考えた上でこの映画やアメリカ人に対して疑問を抱くのが良いんじゃないか?俺はそう思ってます。

↓とか思ったらここで森達也監督が同じような事を言っていた。この記事を読めば分かる通り、もしそれでも日本からのアンサー映画を作るなら原田眞人監督に託すべきなのかもね。

https://www.cinematoday.jp/news/N0142283
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