風に立つライオン

オッペンハイマーの風に立つライオンのネタバレレビュー・内容・結末

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

 2023年制作、クリストファー・ノーラン監督による「原爆の父」J・ロバート・オッペンハイマーを描いた作品で作品賞、監督賞など7部門のアカデミー賞に輝いている。
 
 日本人にとって微妙なテーマではあるが、個人的には素粒子物理学、宇宙物理学の近現代史に於ける一大転換点を創造した主人公と彼のもたらした世界を捉えた科学映画として鑑賞していたし、ノーラン監督もすこぶるそうした視点からのアプローチであったように思う。
 アインシュタインの発見した物質の根源的な方程式E=mc² によって物質とエネルギーは同質であることが示されてからその理論を原爆によって実証・具現化されるまでさほど時間を要していない。
 その開発者たるオッペンハイマーを正面から捉え、天才的科学者という表層の下で風変わりで非道徳的な一面もあり、女性にだらしなく、気の小さい病弱な生身の人間性を投影させながら神秘主義者的側面も取り入れ、監督のお家芸と言ってもいい時間軸の交錯によって描かれることによりストーリーに起伏が生まれ、出汁のような旨味を伴って語られることになる。

 オッペンハイマーの為したことは間違いなく現代の人々の死生観にも影響を与え続けており、おそらくこれからの人々にも否応なくそれを強いて行くことになるだろう。つまり、それは人類史数万年の中で極直近時に開けてはならない「パンドラの箱」を開け放ったことに尽きる。 
 彼は自らが創り出す原爆が世界の終焉に結び付く可能性があることを既に意識していた。しかし、ナチスドイツが先行開発すれば世界は最悪となるとの政治軸に巻き込まれつつ、科学者としての生理的欲求をして兎に角一心不乱に開発に邁進することになった。そういう背景の中でも彼の脳裏にはまさにハルマゲドンが意識され、その恐怖に苛まれることにもなる。 
 また、彼の傍には後に「水爆の父」と揶揄されることになる同僚科学者のエドワード・テラーが気まぐれな狡猾男として描かれているが、オッペンハイマーに原爆を起爆した瞬間に地球上の大気が瞬時に燃え尽きる可能性を示唆していたのは彼である。

 原爆開発の最大の難関は核物質を周囲からの爆発でレンズのように収斂・圧縮して起爆させるための技術論であった。
 その問題を数学者ジョン・フォン・ノイマンやクラウス・フックスらが七顛八倒して計算し、行き着いたのが32の球体爆縮レンズであった。その爆縮により放射された中性子がウランやプルトニウムの原子核に突入して連鎖的核分裂反応が引き起こされた場合、それが誘因していったい何が起こるかは究極不透明であった。
 それにもかかわらずボタンを押してしまう者がいること自体恐ろしいことだがこれが現実である。

 現在のスイス・ジュネーヴにあるCERNの大型ハドロン衝突型加速器LHCでさえヒッグス粒子発見の快挙はみたものの陽子同士の衝突の瞬間にブラックホールを生み出してしまうのではとの憶測もあったりして何が起こるかわからないといった迷信的領域まで広がっているのが現実でその点ではよく似ている。つまりはそれこそ最小の素粒子科学から極大の宇宙物理学まで神の領域と言っていいところまで人間の触手が到達している状況にありながらボタンを押すとどうなるかがわからないという点で同質の未知を有していて恐ろしい。
 
 本作におる基本構造の中にノーラン監督はその原爆を開発しなければならなかった背景を示しながらすべきだったかどうかの問いと貴方だったらどうするとの問い掛けが凄まじいエネルギーとなって全編に波打つように信管という起爆装置を埋め込んでいる。
 そして物語に厚みをつけ深みを与えている要因の一つに多彩な登場人物設定があるし、そのいずれもが主役級のキャストで固められているのも見逃せない。

・オッペンハイマーをキリアン・マーフィーが演じているがその天才性や弱々しさなど本物と瓜二つで素晴らしい
・キティの愛称で呼ばれた植物学者で生物学者である妻キャサリン・オッペンハイマーをエミリー・ブラント
・政府の極秘プロジェクト「マンハッタン計画」を指揮するアメリカ陸軍将校レズリー・グローヴスをマット・デイモン
・頑固で野心に満ちたアメリカ原子力委員会の委員長で海軍少将のルイス・ストローズをロバート・ダウニー・Jr
・イタリアの物理学者エンリコ・フェルミの助手で日本への原爆使用に反対するデヴィッド・L・ヒルに「ボヘミアン・ラプソディー」のラミ・マレック
・量子物理学の祖でオッペンハイマーの心の師でもあるニールス・ボーアをケネス・ブラナー
・アメリカ科学研究開発局のトップでマジェスティック12にも名を連ねるヴァネヴァー・ブッシュをマシュー・モディーン
・日本への原爆使用を命令したアメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマンをゲイリー・オールドマン
・アルバート・アインシュタインを「戦場のメリー・クリスマス」で印象的だったトム・コンティが演じるなど錚々たるメンバーが並ぶ。
 各キャストともリアルでシリアスなアプローチで凄みさえ感じる。
 そうした名演と共にノーラン監督は極少世界の神秘的なビジュアルと驚嘆すべき音響で圧倒する。
 彼はスタンリー・キューブリックの信奉者で特に「2001年宇宙の旅」には大いに触発されたと語っているだけあり、言われてみれば然もありなんの感がある。

 全編を俯瞰してみれば日本の苦しみや酷さを敢えて抑えていて片手落ちと見る向きもあるが、この映画は科学者としての倫理や選択、成し得たことの意味を真正面から捉え、それらを問うと共にまさしくこの現代世界がどういう状況に置かれているかをこの目で確認し、実感して欲しいという叫びを内包しているように思える。
おそらく主眼はそこにあるように思う。
 そして自分が産み落とした代物がハルマゲドンを宿しているとの贖罪から水爆開発に反対し、後年赤狩りの洗礼を受け晩年は咽喉がんを患い寂しくこの世を去っていく。
 また、「マンハッタン計画」参加者の科学者の中にソ連に情報を流していたスパイがいたというのも事実である。セオドア・ホールやクラウス・フックスらが調査の中でそれが立証されている。
 ホールについてはスパイであったのか、アメリカの独走を危惧しての正義感からだったのかは諸説あるようだ。

 ところでオッペンハイマーは当時多くの著名物理学者が好んで読んでいたという古代ヒンズー教の聖典である「マハーバーラタ」を原文のサンスクリット語で読破し、その第6巻「バガヴァッドギーター」にある
  
  「我は死の神なり、
     世界の破壊者である」

 という一節をトリニティー実験成功直後に呟いたという。
 彼はまさにアメリカのプロメテウスであり、世界の命運を握る男でもあった。

 そしてまさしく今現在に於いてハルマゲドンの具現性への恐怖は極大化しているのである。

 オッペンハイマーは言う
「もし第三次世界大戦が起こったらこの文明は終わることになるかもしれない」
 この文明とは何処ぞの国や固有の文明を指すものではなく世界そのものが滅亡することを意味している。そこには勝者もいなければ敗者もいない。にもかかわらずオッペンハイマー以降大国は水爆を含めこの地上で2,000回以上に渡り核爆発を実施してきているのが現実で人間の本質の愚かしさを痛感せざるを得ない。

 そして単なる抑止力を超え、先にボタンを押した方が勝ちという思い込みを持った無知なる大狂人がこのボタンを押さないことを祈るばかりである。