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オッペンハイマーのtanayukiのネタバレレビュー・内容・結末

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
4.9

このレビューはネタバレを含みます

シャンテで『フォロウィング』見たあと続けて鑑賞して、1人クリストファー・ノーラン祭りを決行した。IMAXじゃないのは上映時間の関係でしかたないけど、ひと言だけ言わせて。IMAXのデカい画面でベタ塗りの2次元アニメを上映する意味って何? ニコタマのIMAXレーザーでコナンの予告編を見たんだけど、もともと情報量が極端に少ないベタ塗りのアニメをいくら拡大しても、粗が目立つだけじゃないかと思ったのは自分だけ? 好みは人それぞれだから、コナンを大画面で見たいという人がいても全然いいんだけど、それ用につくられた『DUNE』や『オッペンハイマー』があっという間にIMAXから追い出されてしまった現実を知るにつけ、なんというか、残念な気持ちになる。それこそ希少なリソース(施設)のムダ使いというのではなかろうか。

閑話休題。

『オッペンハイマー』は嫉妬や恨み、裏切り、足の引っ張り合い、相手を陥れるためのウソやデマ、長い物に巻かれる無責任な傍観者、人間を一瞬にして灰にする殺戮兵器の開発が成功したと狂喜する(一歩離れたところから振り返ってみれば)狂ってるとしか表現しようのない人たちなどなど、人間の醜さ、狡猾さ、救いようのない愚かさをこれでもかというくらい凝縮した「高度な政治劇」だ。権力の中枢に近づけば近づくほど、人間という生き物の隠れた本質(それは決して心地よいものばかりではない)に直面せざるを得ないという現実をイヤでも思い出させてくれる、きわめて重苦しい作品なのだけど、憶えきれないほど多岐にわたる登場人物たちの中で、とりわけ強烈なインパクトを残した恐ろしい人たちが4人いた。

1人目は、ケイシー・アフレック演じる陸軍の情報将校ボリス・パッシュ。共産党とのつながりからソ連へのスパイ行為を疑われたオッペンハイマーを尋問した。ひと言でも不用意な発言をしようものなら、そこを突破口に、小さなほころびをグイグイと押し広げて、心の奥に秘められた闇までほじくり出しそうな圧迫感に打ち震える。顔は笑っていても目は全然笑ってないこういうタイプの人間は要警戒だと、俺のゴーストがささやくのだ(ケイシー・アフレックはこういう裏表のある人物をやらせたら天下一品だ)。マンハッタン計画の責任者であり、オッペンハイマーのよき理解者でもあったレズリー・グローヴス陸軍准将、のち少将(マット・デイモン)がヨーロッパ戦線へ飛ばしていなければ、オッペンハイマーは完落ち(それがウソの自白だったとしても)に追い込まれていたかもしれない。ちなみに、実際のボリス・パッシュはアメリカ生まれながら帝国ロシアにルーツをもつ一家の出身で、ソ連成立に伴い、白軍として参戦した筋金入りの反共主義者。渡欧後はナチスの核開発計画を妨害し、情報を盗み出すアルソス・ミッションを指揮している。

2人目は、ゲイリー・オールドマン演じるハリー・トルーマン大統領。核兵器の無制限の使用に恐怖を覚え、水爆の開発に異議を唱えるようになったオッペンハイマーに対して、「原爆を落とされた人たちが恨むのはおまえじゃない。命令を出したこの俺だ」と凄んで見せ、「あの泣き虫を二度と近づけるな」と吐き捨てた。ちなみに、ゲイリー・オールドマンは、日本の無条件降伏勧告を定めた1945年7月から8月にかけてのポツダム会談に参加した連合国三首脳のうち、スターリンを除くチャーチル(期間中に選挙に敗れアトリーに途中交代)とトルーマン(フランクリン・ルーズベルトは1945年4月に病没)をともに演じたことになる。

3人目は、オッペンハイマーが事実上の公職追放に追い込まれた1954年のセキュリティ・クリアランス聴聞会で、原子力委員会側の特別弁護人を務めたロージャー・ロッブ(ジェイソン・クラークが演じた)。映画の後半で判明するように、彼はストロースの手先となって動いていた小物にすぎないのだけど、裁判で求められるような客観的な証拠を必要としない、一方的な決めつけが許される聴聞会の席で、オッペンハイマーをあたかも国家反逆罪で告発された被告人であるかのように扱い、罵り、威圧する検察役(刑事裁判じゃないのだから、検察なんてそもそもいないはずなのに)を買って出た。オッペンハイマーの弁護人が反論しようにも、「機密文書だから」と開示を拒み、妻や浮気相手が米国共産党員であった事実を執拗に追求して、ウソの自白を強要するそのやり口は、マッカーシズムが吹き荒れた当時のアメリカの異常さを浮き彫りにする。真実を追求する気などさらさらなく、聴聞会会の委員に、ありもしないスパイ疑惑を印象づけるだけでよかったので、重箱の隅をつつくような些細なことでも大げさに、さも真実であるかのように暴き立て、「原爆の父」として戦争を終わらせた自国の英雄の顔に泥を塗ることに成功した。「誰か真実を語る人間はいないのか」。無敵の男に狙いをつけられ、払うに払えない火の粉に絶望したオッペンハイマーの言葉が胸に迫る。

トリを飾るのはもちろん、ロバート・ダウニー・ジュニア演じる原子力委員会(AEC)の委員長ルイス・ストローズ。靴売りからの叩き上げだとうそぶくが、権力欲が旺盛で、意見の合わない政敵はどんな手を使ってでも排除する筋金入りの「ザ・政治屋」。表面上はおだやかなふりをしながらも、男の嫉妬ほど怖いものはないを地で行く卑劣漢で、同じユダヤ人であり、戦後すぐにみずからプリンストン高等研究所の所長に招いた(ストローズは同研究所の理事であり、みずからも所長候補だったが、指名候補の一番手は「原爆の父」として名高いオッペンハイマーだった)仲だったオッペンハイマーを目の敵にしたのも、水爆開発で意見が対立したという表向きの理由とは別に、1947年のAEC委員時代(委員長に就任するのは1953年)に、医療目的の放射性同位元素(ラジオアイソトープ)のノルウェーへの輸出が安全保障上の問題だと騒ぎ立てたストローズのことを、科学音痴の戯言だと揶揄してOKサインを出したオッペンハイマー(彼はこのとき原子力委員会に報告する立場にある、上級科学者による一般諮問委員会(GAC)の議長を務めていた)を許せなかったからだ。それ以降、表向きはオッペンハイマーを立てるふりをしながら、1953年にアイゼンハワー大統領がストローズにAEC委員長の座をオファーしたとき、ストローズがオッペンハイマーを公職(AEC顧問)から排除することを心に決めたのは、彼が個人的な恨みを晴らす絶好の機会をみすみす逃すほど器が大きくなかったからでもある。憎きオッペンハイマーを陥れるために、彼の粗探しをFBIのフーバー長官に頼み込み、それ以降、戦争を終わらせた国家の英雄だったはずの男は、FBIの監視下に置かれたのだ。くわばらくわばら。

△2024/04/17 TOHOシネマズ日比谷で2回目鑑賞。スコア4.9


時間の魔術師クリストファー・ノーランが「原爆の父」を撮る。世界を「原爆以前」と「原爆以後」に二分してしまったマンハッタン計画とロスアラモス研究所という人類史に残るプロジェクトと拠点を描くにあたって、時系列バラバラにしてエピソードをつなぐ構成が好きなノーラン監督は、2つの「聴聞会」「公聴会」を主旋律にすえ、リーガルサスペンスばりの「法廷劇」として、この歴史的大作をつくりあげた。

1つ目の舞台は、1954年のオッペンハイマーに対するセキュリティ・クリアランス聴聞会。1945年7月の人類初の核実験トリニティ実験の成功で「原爆の父」となり、戦争の早期集結に貢献した英雄として、オッペンハイマーは戦後も、原子力委員会(AEC)顧問の立場で米国の核戦略に大きな影響力をもっていた。ところが、1953年にアイゼンハワー大統領から指名を受け、AEC委員長に就任したルイス・ストローズは、水爆開発に否定的なオッペンハイマーのせいで、米国がソ連に遅れを取ることを強く懸念していた。同時に(というか、こちらが本命なのかもしれないが)、数年前に自分の無知を委員会の場で小バカにして笑いをとったオッペンハイマーを、ストローズはひそかに恨んでいた(高卒だった彼の学歴コンプレックスも影響したかもしれない)。そこでストローズは、オッペンハイマーがソ連のスパイだったのではないかという疑惑をでっちあげ、オッペンハイマーが保持していたQクリアランス(核兵器に関する最高機密情報にアクセスできる権限)を一時停止したのだ。オッペンハイマーは辞職するよりも身の潔白を証明することを選び、公聴会の開催を要求した。だが、そうして開かれた非公開の聴聞会はストローズが周到に用意した罠だった。

聴聞会は裁判ではない。オッペンハイマーはスパイ容疑で告発された刑事被告人でもなければ、AECの特別弁護人ロージャー・ロッブは事件の立証責任を負った検察でもない。にもかかわらず、ロッブはオッペンハイマーが過去に米国共産党と関係をもっていた事実を次々と暴き立て、ソ連に機密情報を情報提供したのではないかと執拗に追及した。これが裁判なら、ロッブの暴走に待ったをかけることができたかもしれないが、残念ながら、これは単なる聴聞会だ。裁判なら当然保たれるはずの公平性も、証拠の客観性もないがしろにされた。しかも、機密上の理由から非公開でおこなわれた聴聞会は、最初から結論ありきの茶番だった。オッペンハイマーは一方的に「ソ連のスパイ」という疑惑を突きつけられたが、それが事実かどうかは関係なかった。そういう疑惑があるというだけで、Qクリアランスを持たせるわけにはいかないからだ。聴聞会の決定により、オッペンハイマーは公職を追われた。ストローズの完全勝利で終わったのだ。

(オッペンハイマーはその後、プリンストン高等研究所の所長のポジションに戻るが、そこでも、理事のストローズがオッペンハイマーを解任しようと画策する。しかし、理事会はオッペンハイマーを留任させることを決議している。ロスアラモス研究所の500人近い科学者も、聴聞会の決定に異議を唱え、「この根拠の乏しい決定は......国防研究所で適切な科学的人材を確保することをますます困難にするだろう」という嘆願書に署名している。ストローズの独善的・高圧的なやり方を嫌う科学者は少なくなかったのだ)

2つ目の舞台は、それから5年後の1959 年、アイゼンハワー大統領から商務長官に指名されたストローズを承認するための上院商務委員会の公聴会。通常なら晴れの舞台となるはずの場だったが、その傲慢な態度ゆえに政敵の多かったストローズは、承認されるかどうか、ギリギリまで票読みをしなければならなかった。ほかの閣僚が8日間程度の審議で次々と承認手続きに移るなか、16日間も審議に時間をかけたあと、委員会は9対8の僅差で、上院本会議に承認すべしとの勧告を出す。ところが、本会議の審議を経て投票した結果、なんと、賛成46(民主党15名、共和党31名)、反対49(民主党47名、共和党2名)で否決されてしまうのだ。指名された閣僚が上院で承認されなかったのは、史上8人目のことだった。

これも法廷闘争のように見えながら、裁判ではない「公聴会」だったところがミソで、1954年にオッペンハイマーがあらぬ疑惑をかけられたときも、真実かどうかは問われない、疑惑だけで機密情報へのアクセス権をとりあげるには十分だったように、ストローズが商務長官たる資格があるかどうかを問われたときも、真実かどうかよりも、それにふさわしくないと印象づけるだけで十分なのだ。「疑わしきは罰せず」が通用するのは刑事裁判の世界だけで、聴聞会や公聴会では「疑わしきは認めず」で事足りるのだった。

ストローズのつまずきのもとは、オッペンハイマーとの確執だけではなかったが、彼に対する科学者たちの恨みも相当なものだった。映画では、商務委員会の公聴会の席で、ラミ・マレックが演じたデイヴィッド・L・ヒル博士が科学者を代表して「この国の科学者のほとんどはストラウス氏が政府から完全にいなくなることを望んでいる」とストローズの承認に反対する答弁をしているが、これも史実。「憎まれっ子世にはばかる」とはいかず、結果的に「策士策に溺れる」結末になっているところが、このドロドロの復讐劇の唯一の救いになっている。

映像的なピークは、人類初の核実験トリニティ実験の場面で、ルドウィグ・ゴランソンの執拗に繰り返される旋律が否応なく緊迫感をを高め、緊張しすぎて息ができなくなってしまうほど。隣に座っていた女の人からは、こらえきれなくなったのか、あああ、と小さな声が漏れていた。オッペンハイマーにとっても、原爆開発のピークはトリニティ実験にあったはずで、広島、長崎への原爆投下の事実は、本人が事前に知らされていなかったことを考えれば、映画で直接描かれなかったのも理由がないわけではないと思う。

オッペンハイマーは、ロバートと呼ぶ親しい人を除くと、オッピーと呼ばれている。原爆実験成功と広島への原爆投下成功で、ロスアラモスの仲間たちに「オッピー」「オッピー」「オッピー」と熱狂的に迎え入れられる地獄のような光景を目の当たりにして、これが「オッパッピー」だったらどんなによかったかと、けっこう真面目に考え込んでしまった。それはたしかに科学的にも戦争で優位に立つという意味でも「偉大な一歩」だったに違いないが、人類がみずからを抹殺できるだけの武器を手にしたことの意味と重荷を、この人たちは(私たちも)これから一生抱えていくことになるのだから。

ノーランがオッペンハイマーのことを意識するようになったのは、1985 年のスティングの初ソロ作品『ブルー・タートルの夢』に収録された「Russians」を聴いてからだという話を知って、久しぶりに聴いてみた。Universal Music Japanのサイトに、「ラシアンズ」の和訳付きMVがあるので、気になる人は見てみて。
https://www.universal-music.co.jp/sting/news/2022-03-15/

「How can I save my little boy from Oppenheimer's deadly toy(オッペンハイマーの破壊的なおもちゃから、どうやって小さな男の子を救えばいいのだろう)」

△2024/03/02 109シネマズ二子玉川IMAXレーザー鑑賞。スコア4.9
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