綾

オッペンハイマーの綾のネタバレレビュー・内容・結末

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

ノーラン監督最新作ー🔥と気合いを入れて原作を読んでおいてよかった。そうでなければ私にはサッパリだった。

原作を読んだとき、結局オッペンハイマーが何を思いどう感じたのか何もわからなかった…… と、その人となりの複雑さばかり印象に残ったのだけど、本作を観て、より立体的に彼を感じられてよかった。より理解や想像ができたという意味ではなくて、その複雑さや曖昧さが具現化されたというか。より生身の人間として、少しだけ、彼に近づけた気がした。

思えばオッペンハイマーに限らず、誰のことも本当には理解なんてできないよなあ、とも。


原爆投下はこんなにも「どうでもいい相手」としてなされたと知らなくて、ショックだった。ナチスとの競争によって開発され、ロシア(ソ連)との競争を見据えて落とされた。こんなにも、蚊帳の外だったなんて。戦争を終わらせるためですらなかった。

こうの史代さんの『夕凪の街 桜の国』にあった台詞、「わかっているのは『死ねばいい』と誰かに思われたということ」を思い出した。
「嬉しい? 十年経ったけど、原爆を落とした人はわたしを見て『やった!またひとり殺せた』とちゃんと思うてくれとる?」

日本だって原爆を開発していたということ(それ自体は決して誇れることではないけれど)アメリカは想像すらしていなくて、ただただくやしい。

愛の反対は憎しみではなく無関心だと、よく言ったものだと思う。

映画を観てしばらく経ってからふと思ったのだけど、ストローズと日本は、少しだけ似ているのかもしれない。この物語において、当人たちが思っている以上に部外者だったという意味で。


ただ、本作は(原作含め)原爆とその開発にまつわる物語ではなくて。あくまでJ・ロバート・オッペンハイマーという一人の人間についての物語。すごく頭の良い、たまたま原爆開発に携わった、普通の。

そして、表面上はとても主観的だけど実は客観に徹した映画だと思った。ストローズ視点のモノクロパートを除き、ほとんど原作にあることしか描かれていなくて。その「解釈のなさ」がとても誠実だった。

でも、ほぼ唯一(?)オリジナルに解釈されていた、キティの「あなたは罰せられたいのよ」みたいな台詞(めちゃくちゃニュアンスです、正確になんて言ってたのかは忘れてしまった)がガツンときた。その方向では考えなかったな……

私がどうしたって彼を “許せない” と思ってしまうように、彼自身、どうしたって自分は許されないし、許されるべきでもないことを自覚していたのかもしれない。


ストローズやキティもリアルに存在した人物として想像できてうれしかった。ストローズの劣等感や嫉妬心、執念深さは誉められたものではないけれどより身近に感じられて悲しくさえあったし、キティは原作にあったナンシー・ギブニーのキティ評「小さなライオンのように勇敢で、自分のチームにはきわめて忠実でした」がとてもしっくりきた。聴聞会のシーン、かっこよすぎて心の中でガッツポーズした。

あとキリアンの青い目…… オッペンハイマーの透き通るような青い目、という描写を思い出して感動した。

3つの時間軸がひとつに収束するラストは、うおおおおと大興奮。事実の羅列であるノンフィクションを、こんなふうに映画化しちゃうなんて(それも原作のエッセンスをほとんど取りこぼさず)本当にすごいな……


トリニティ実験について。原作を読んだとき、実験の成功に狂喜する人々に本気で腹が立った。1回目にIMAXで観たとき、そのプレッシャーや緊張感を肌で感じて、人間心理として仕方ない部分もあるのかもしれない…… と思った。でも2回目に観たとき、やっぱりあり得ない、と強く思った。あれを目前に見て、爆風を肌で感じて、それでも人の上に落としていいと思ったなんて。あり得ない。

これは本を読んでいたときからずっと考えていたことなのだけど、国のトップに立つ人間ほど、想像力と繊細な思考力を持ち合わせていなくて(もちろん全員が全員だなんて言いません)大きくて粗野な声は、小さくて聡明な声をかき消してしまう。それは自然の摂理で、絶望してしまいそうになる。


オッペンハイマーは、愚かな民衆にはいざ落とされないとその恐ろしさがわからない、と言ったけれど。ちがうよ、落とされても、それでも、わからないねん人間は。一度落とされればすべての戦争はなくなるだなんて。なんて恐ろしい誤算。でも、そう考えてしまうこともまた理解できる。一人の人間として。

(バーベンハイマーの騒動も思い出す。せめてオッペンハイマーとともにスライドショーの資料を見る、というシーンを挟むことはできなかったのかな、と少し思った)

人間って、本当になんて賢くて愚かな生き物なんやろうね。なんで他の生き物たちのように、ただ自然のまま、エゴに囚われず、世界の一部として存在していられないんやろう。

インターステラーやテネットでも思ったけれど、人間に「未知」を追い求める本能が備わっていること自体、何か神秘的で、恐ろしいことのように思える。


「どんな国も、どんな意味においても、核戦争に勝利することはできないという秘密」

これは過去の物語なんかじゃない。

何かで読んだ、その時代を生きた人たちがその時代のことをいちばん知らない、という話を思い出した。映画を観ながら、オッペンハイマーたちはなんて近視眼的なんだろうと思ったけれど。私たちだって、今、そうなのだと思う。忘れないで。どの方向に歴史の舵が取られているのか、つねに見極めて。注意していて。と、自分に対して。

歴史というのは、一人一人の思惑や欲望、個人的な感情、選択が複雑に絡まり合って紡がれるものなのか、何か抗えない大きな流れがあって、一人一人の人間はちっぽけな駒のような存在なのか、どっちなんやろうね。

大きな視点と、小さな視点、どちらも大切なのだと思う。大局的、政治的スケールの見方と、一人一人の人間に寄り添った見方と。前者を蔑ろにすれば、歴史的な文脈を読み取れず本質を見誤ってしまうかもしれないし、後者を軽視すれば、いちばん大切な人間性を失ってしまう。ガザやウクライナについて考えていても、すごく感じる。


ノーラン監督は「観客を信頼している」という。私としては、いやいやそんなに信頼されても困ります…… と思うけれど😂、これからも、並走はできなくても振り落とされないようしがみついてはいたいな。

いわゆる難解とされる作品たちの中でも、どうしてかノーラン作品はもっと解りたい!考えたい!と思わせてくれる。知的好奇心でいっぱいにしてくれる。

次回作も今からとても楽しみにしています。

やっぱりノーラン作品は映画館で催されるお祭りだー!ありがとうございました!!!
綾