シゲーニョ

オッペンハイマーのシゲーニョのレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
3.0
無学な自分がオッペンハイマーの名前をハッキリと意識したのは、学生の頃に聴いたスティングのソロアルバム「ブルー・タートルの夢(85年)」の収録曲「Russians」の歌詞、そのワンフレーズ。

「♪〜オッペンハイマーが開発した死のオモチャから/どうにかしてボクの息子を救いたい〜♪」

この曲を書いたきっかけをスティングは、友人の自宅で見た海賊放送で流れたニュース映像“アフガニスタンに侵攻するソ連軍”と語っている。
当時、このアフガン戦争が海を渡って飛び火し、アメリカとソ連の間で核戦争が勃発するのではと不安視されていたのだ。

つまり、歌詞の「死のオモチャ」は核兵器を意味している。
(注:偶然ながら、クリストファー・ノーランがオッペンハイマーの名前を知ったのもこの曲「Russians」で、15歳の頃だったらしい…笑)

本作「オッペンハイマー(23年)」の初鑑賞は、去年7月末の頃。
たまたまN.Yに滞在していたので、市内で唯一「IMAX70ミリ」のスクリーンがあるAMCチェーンの映画館リンカーン・スクウェアで、撮影時に使用されたIMAXフィルム、つまりオリジナルならではの迫力を体験しようとはりきっていたのだが、当日はもちろん、その先4日間くらいチケットがほぼ完売の状態…。

まぁ、完尺3時間オーバーの作品なので、1日の上映は3回が限界ということもあるだろうし、「IMAX70ミリ」のある映画館はバカ広〜いアメリカ国内でも25カ所しかないらしい(!!)

なので、すぐに諦め、空席のある映画館を探しまくって、結局ブロンクスに在るショッピングセンターに隣接した、かなりオンボロのシネコンで観ることになり、意気消沈して小さなスクリーンを見下ろす席に腰を下ろしたのだが、観終わってすぐに思ったのが、業界用語でいうところの「白完パケ」なんじゃないか!?ということ。

「白完パケ」とは、演出プラス視聴者に内容をより理解させるための手段=テロップ(人名とか場所・日時、翻訳した言語など)がインポーズされていない、完成版の一歩手前の状態のことを指すのだが、本作「オッペンハイマー」には、うろ覚えだが…冒頭の一節と最後のクレジット以外、テロップが全く入っていない…。

但し自分は、序盤、オッペンハイマー(キリアン・マーフィー)がライデン大学で、オランダ語で講義した際に英訳の字幕テロップが無かったことに文句を言っているのではない。

本作は、複数の時間軸と場所が“複雑に入り混じる”作品であり、それを“売り”&“見どころ”の一つとした映画だ。

そのうえ、50人を超える登場人物に殆ど何の説明もない。

そこで頭の中に沸き起こった疑問。
観客が映画に没入する上で最低限必要なテロップぐらい、入れるべきではなかったのか…?

自分が日本人だから余計にそう思うのかもしれないが(笑)、例えば、岡本喜八の「日本のいちばん長い日(67年)」やその演出法を真似た「シン・ゴジラ(16年)」、そして笠原和夫が脚本を担当した「仁義なき戦い(73年)」「226(89年)」のように、登場人物の“名前・肩書き”がそれぞれ初登場のシーンでテロップ表記されれば、人物の把握と物語における人間関係の配置、そのガイドラインとして大いに役立ったはずなのに…。

まぁ、本作は、歴史に残る著名人の名前をタイトルに冠した伝記映画であるワケだから、観る者にそれなりのリテラシーが要求されるのは致し方無いことなのかもしれないし、さらによ〜く考えてみると、本作の監督クリストファー・ノーランのファンならば、決して難解な映画では無いのかもしれない。

本作「オッペンハイマー」は、2つの視点が絡み合いながら進む。

一つは1954年の国家安全保障聴聞会で、ソ連のスパイとして追及される中、オッペンハイマーの視点で過去がフラッシュバックするカラー・パートの「FISSION(核分裂)」。

そして二つ目が1959年、商務長官に承認されるため連邦上院議会に出廷した、AEC(米国原子力委員会)の委員長ストローズ(ロバート・ダウニー・Jr.)の視点で、彼にとって忌々しいオッペンハイマーとの過去がフラッシュバックするモノクロ・パートの「FUSION(核融合)」だ。

このオッペンハイマーの聴聞会と、5年後のストローズの公聴会を交互にカットバックさせながら、ストーリーを紡ぐ構成は、ノーランの前々作「ダンケルク(17年)」での、海岸で“何週間”も立ち往生した英仏軍、彼らを救うために“一日”かけて英仏海峡を渡った民間船、“数時間”で現場に到着した英国航空隊という、“タイムスパンが異なる3者”をカットバックさせて、実際には存在しなかったサスペンスを醸成する作劇法を彷彿させるし、また時系列を逆行させたり、カラーとモノクロのシーケンスを混在させる手法は、まさに長編2作目の「メメント(01年)」そのもの…。

なので、ノーラン信者の方なら、すんなりと映画に没入できたと思う。

しかしながら、自分は頭が痛くなってしまい、集中力が途切れることが鑑賞中、何回かあった(笑)。

特に1949年、ソ連の核実験が成功したことを受けて催されたAECの会議。
このシーンは本篇内、モノクロとカラー、バラバラに分けられ、アブストラクトな感じで挿入される。

ソ連のスパイが身内にいるのではと、喧々諤々するメンバー。

ソ連の原爆に対抗して、さらに強力な水爆を開発しようと提案するストローズ。

そんなことしたら開発競争が必至となるから、世界中で協力しあって各々の技術を共有管理すべきだと主張・反対するオッペンハイマー。

そして、この会議の最中か前後に、AECの新メンバーであるボーデン(デヴィッド・ダストマルチャン)から、戦闘機のコクピットからミサイルを目撃した話を聞いたオッペンハイマーは、核弾頭がミサイルに搭載される未来を幻視する…。

どんな順番で、どれがカラーで、どれがモノクロだったか、完全に失念してしまったが、上述したシーンが同じ日、同じ場所で行われていたと気付いたのは、だいぶ物語が進行した終盤の頃だった…(汗)。

ノーランが、過去の自作をセルフ・オマージュしたというか、より発展させたように思しき箇所はまだある。

オッペンハイマーとストローズの関係性が、「アマデウス(84年)」に於けるモーツァルトとサリエリと類似していることを、ノーランは本作公開直後のインタビューで認めているが、あくまでも自分だけかもしれないが、ノーランが2006年に撮り上げた「プレステージ」での歪み合うライバル、秀でたマジシャン同士のボーデン(クリスチャン・ベール)とアンジャー(ヒュー・ジャックマン)にダブって見えてしまうのだ。

たしかに多くの評論家が指摘しているように、オッペンハイマーはモーツァルトのように天才ながら人付き合いは不器用に見える。自分が興味を持てない人間には冷淡で、他人の感情を察する能力が極めて低い。

一方のストローズも物理学者になりたがったが、家が貧しくて進学を諦め、必死で働いてビジネスマンとして成功し、サリエリが宮廷楽長として楽壇の頂点に立ったように、プリンストン大学の高等研究所の理事、そして原子力委員会の重鎮まで登り詰める。

だが、サリエリがモーツァルトの存在によって芽生えた“凡庸さの自覚やコンプレックス”が、ストローズの胸の内に在ったとは思えない。

ストローズがオッペンハイマーに抱く思いは、公の前で自分の人生をバカにされ、プライドを傷つけられたことに対する復讐と被害妄想から生じた怨念だ。

オッペンハイマーをプリンストンの研究所長として招いたにも拘らず、議会の公聴会で、アイソトープの輸出規制を主張した際、オッペンハイマーに「アイソトープはそんなに重要じゃありませんよ!サンドイッチより役に立つけど(笑)」とからかわれ、大恥をかき、恩を仇で返されたことを、ストローズは6年近くずーと根に持っている。

また、パーティの席でストローズが自分の息子夫婦を紹介すれば、興味がないものは見えない性分のオッペンハイマーは当然無視。
さらに息子が側にいるのに「あなたの昔の職業はLowly Shoe Salesman(卑しい靴売り)でしたよね?」と、余計に不快感を与える言葉を、ストローズは投げかけられる。

そして極め付けは、ストローズが、アインシュタインが自分を無視するのは、オッペンハイマーが自分の陰口を吹聴したからだと思い込んでいることだ。

これらは、「プレステージ」の二人が、とあることで歪み始め、以降、公衆の面前、お互いの舞台上で、トリックのタネを明かすなど邪魔しあい、果ては面目を潰し合う展開と相似しているように思えてならない。

「プレステージ」のボーデンとアンジャーが、マジシャンとしての誇りを傷つけられたことによって、誰にも真似できない、前代未聞の奇術「瞬間移動」を成し遂げようと競い合ったように、オッペンハイマーとストローズも、核開発という“偉大なるマジック”の成就ために、互いにリスクも犠牲も厭わなくなってしまう…。

そもそも、両作は物語の構造がそっくり。
「プレステージ」は、ボーデンがアンジャーを殺害した罪を問われる裁判の日と、アンジャーがボーデンの「瞬間移動」のタネが書かれた日誌を盗んだ別々の日を起点に、過去に戻ったり、先に進んだり、時間軸を細く入れ替える構成のため、本作「オッペンハイマー」同様、一度目の鑑賞では、話を追うのに相当苦労した覚えがある…。

また「プレステージ」の劇中内、エジソンとの確執で有名な実在の人物ニコラ・テスラ(デヴィッド・ボウイ)が、「瞬間移動」をマスターするために狂気に陥るアンジャーを戒めるシーンがある。

「君はマジックの代償を考えたことがあるのか?君は取り憑かれている。やがて身を滅ぼすことになるぞ。」

そして、「瞬間移動」を成功したアンジャーに、テスラはこう諭す。

「マシーンを壊せ!深い海の底に沈めろ!このマジックは悲劇をもたらすだけだ…」

これは、テスラが生み出した交流電気によって、「瞬間移動」というマジックが科学的に可能になったことで生じる危険性を訴えたメッセージなのだが、このテスラの言葉と同じ意味合いの台詞が、本作「オッペンハイマー」の中でも語られている。

原子爆弾を開発するために作られた、ロス・アラモス研究所を訪れた理論物理学者ボーア(ケネス・ブラナー)が、オッペンハイマーにこう警告する。

「人類はまだ核兵器を持てるほど成熟していない。人類に自ら滅ぼす力を与えるプロメテウスに君はなってしまうぞ!」

オッペンハイマーは、科学者としての探究心から原子爆弾を開発した。
もちろん、ユダヤの血を引くことから、ナチス・ドイツとの原爆開発競争に「勝たなければならない!」と強く念じたことは想像できる。

劇中の序盤、オッペンハイマーはこんな言葉を呟く。
「世界をより良くするには、どうしたらいいのか、よく考えることがあるんだ」

社会のために理論物理学者である自分には、一体何が出来るというのだろう。そんな悩みが、オッペンハイマーに十字架を背負わせることになる。

ここで思い浮かぶのが、「人類に最大の貢献をもたらした人々に贈られる賞」、その創立者で、名前の冠となった、ダイナマイトを発明したアルフレッド・ノーベルだ。

ノーベルはダイナマイトが人体を木っ端微塵にする兵器としては考えず、その保持が戦争を抑止出来ると信じ込んでいた。この思考回路はオッペンハイマーにそっくりだ。

原爆開発の功労者としてホワイトハウスに招かれたオッペンハイマーは、トルーマン大統領(ゲイリー・オールドマン)に向かって「私の手は血で汚れてしまっている」と吐露してしまい、「こんな泣き虫を二度と寄越すな!」と呆れさせるのだが、まぁ、トルーマンが怒るのも当然だろう。

毎日、何百、何千という死者を出した太平洋戦争、その軍事的決断を下したのはトルーマンなワケだし、トルーマン自身も第一次大戦では砲兵として参加し、自らの手で多くの敵兵を殺めた戦闘経験がある。

また、広島で原爆投下後21日目に撮影された写真がスライドで上映されるのだが、オッペンハイマーはスクリーンから目を背け、俯き続ける。

そしてカメラはスライドを映したスクリーンではなく、自分がしたことを直視できないオッペンハイマーの姿を静かに撮り続けるのだ…。

映し出される彼の表情は、原爆投下成功に沸くロス・アラモスの講堂で、自分を称賛する同僚たちに向けて勝利演説した、「日本は大損害を受けたはずだ! ドイツにも落としてやりたかったよ!」と叫んだ、あの時の誇らしげで嬉々としたものとは、あまりにも対照的である。


本作は、2005年に出版された、カイ・バードとマーティン・J・シャーウィン共著によるノンフィクション、「アメリカのプロメテウス:オッペンハイマーの勝利と悲劇」に基づいて作られたのだが、開巻いきなり、こんなテロップがインポーズされる。

「プロメテウスは神々の炎を盗み、人間たちに与えた。その罪でプロメテウスは岩に鎖で繋がれ、永遠の罰を受けた。」

ギリシャ神話におけるプロメテウスの物語は、オリンポス神殿から盗んだ神々の炎を、タイタン神族のプロメテウスが、動物のように暮らし、神と違って不死ならぬ“男”ばかりの人類の先祖に、もたらしてしまったというおハナシ。

これに怒ったオリンポス神族のゼウスが、プロメテウスを最果ての岩に縛りつけ、鷲に内臓を食われ続ける刑を与える顛末となるのだが、原作者並びに本作の作り手たちとしては、原爆という“新たな炎”を手に入れたオッペンハイマーが、神話のプロメテウスと同じく、“不遜に対する罰を受ける”というストーリー展開を、冒頭のテロップで暗示させたかったのだと思う。

但し、個人的に着目したのは、神話の中で、怒ったゼウスがプロメテウス同様に、人間にも罰を与えていることだ。

ゼウスは、奪われた炎に見合った禍いとして、女神の顔に似せた“女”を作り、男だけの人類に送る。この人類最初の女性こそ、触れてはいけないもの=パンドラの匣で有名な、パンドラである。

そして、オッペンハイマーにとってのパンドラと云えるのが、ジーン・タトロック(フローレンス・ピュー)なのだろう。

ジーンは、人類に災厄をもたらしたパンドラのように、オッペンハイマーの心を掻き乱す。
道を歩いて手を握ろうとすると手を払いのけるし、花束を送れば、オッペンハイマーの目の前で屑籠に放り投げる。

そう、まさに触れてはならない存在なのだ。

また、ジーンは死に取り憑かれている。
ヒンドゥーの経典「バガヴァッド・ギーター(神の詩)」の一節、「今、我は死なり。世界の破壊者なり」をオッペンハイマーに読ませながら、騎乗位で上になって犯すジーンの姿は死神のように見えるし、精神科医であるにも拘らず、鬱で自殺未遂を繰り返し、ついに追い込まれた最期、ジーンは「どうしても会いたい」と電話するのだが、マンハッタン計画が始動し、それに日々忙殺されるオッペンハイマーは彼女の願いに応えることができない。

救おうとして救えなかったジーンの魂は、幽霊のようにオッペンハイマーにまとわりつく。
オッペンハイマーの脳内で呼び起こされるフラッシュバックは、ノーランの過去作「インセプション(10年)」で、デカプー演じる主人公を夢の中で苦しめる自殺した妻(マリオン・コティヤール)にそっくりだ…。

罪悪感に駆られ、砂漠で泣きじゃくるオッペンハイマーを叱りつけるのが、妻であるキティ(エミリー・ブラント)だ。

「罪を犯した結果が起きたのに、同情されると思ってるの?」

もちろん、キティはジーンとの関係について言及しているのだが、オッペンハイマーが原爆を作って後悔する未来を、あたかも予言しているかのようにも聞こえてしまう。

キティは、いつもウィスキーの携帯ビンを離さないアルコール依存症で、たびたび育児放棄もする不良妻なのだが(笑)、自分にはオッペンハイマーにとって、パンドラの匣を開けて、最後に残った「希望」のように思えてならない。

ネタバレで大変恐縮だが、本作のラスト近く、オッペンハイマーが公職追放されてから9年後、彼の名誉回復として贈られたエンリコ・フェルミ賞の受賞式のシーン。

水素爆弾の開発を巡って袂を分かち、夫オッペンハイマーにソ連のスパイ容疑がかけられた裁判で、証人として彼に不利な証言を行ったエドワード・テラー(ベニー・サフディ)を、「絶対に許さないから!!」と訴えるような、脅すような、血走った目でキッと睨みつける妻キティ。

3時間ある長丁場の本作の中で、唯一、胸がすくむシーンだった…(爆)。


最後に…

1959年の公聴会で、ストローズは商務長官の承認を否決され、政治家の道を閉ざされることになるのだが、反対票を投じたグループのリーダー、その上院議員の名前が「ジョン・F・ケネディ」…。

おそらくだが、翌1960年の大統領選挙で民主党候補として勝利したケネディが、オッペンハイマー支持者たちを自分の側近に加えて、オッペンハイマーの公的名誉を復活させようと動くことを示唆するシーンと云えるのだろう。

しかし、ここで見落としてはならないことがある。

実は、ケネディはかつてジョセフ・マッカシーの“赤狩り”に協力し、「ソ連の原爆成功を後押ししただろ!?」と因縁をつけ、オッペンハイマーにスパイ容疑をかけた一派、その一人だったのである。

そしてケネディが1961年の国連演説で述べた言葉。
「人類は“核”という名のダモクレスの剣の下で暮らしている。剣は細い糸でつるされ、いつ切れるか分からない」

異論・反論が来ることを承知して敢えて書くが、なんか無責任に聞こえてしまうのだ。
ケネディは、機械の故障やヒューマンエラーといった事故によって起こる“偶発核戦争”の危険性を訴えたのだろうが、自分が真っ先に核ミサイルのボタンを押す可能性もゼロではないのだから、他人事のようにも思えてしまう。

もちろん、1962年秋のキューバ危機の際、はやる軍部やタカ派議員を抑え切ったケネディのリーダーシップ、「忍耐強く平和の道を探ろう」と広く内外に呼びかけた点は賞賛に値する。
しかし、アメリカ大統領が「核廃絶」を国際社会に働きかけるのは、2009年オバマのプラハでの演説まで、なんと半世紀近くも時間を要しているのだ…。

本作の中盤、原爆使用について議論するシーン。
関係者の一人が「事前に警告して一般市民の犠牲を減らそう」と提案するも、グローブス准将(マット・デイモン)は「力の誇示が必要なんだ。それも2発。 1発目は原爆の威力を見せつけ、2発目は降伏するまでやり続けることを教えてやるんだ!」と狂った主張をする。

あくまでも個人的な考えだが…
本作で描かれたこのような愚かな人間たちが、大戦後も途切れることなく、「A Weapon of Mass Destruction(大量破壊兵器)」を作り、使用するのを手ぐすね引いていることを、改めて観る者に喚起した作品だと思えてしまったのだ。

「A Weapon of Mass Destruction」という言葉を初めて用いたのは、1937年、スペイン内戦で起こったゲルニカ爆撃を言及したカンタベリー司教、コスモ・ゴードン・ラングなのだが、本作のワンシーンを思い出して欲しい。

冒頭、オッペンハイマーが美術館で眺めていたピカソの絵画。

タイトルは「手を組んで座る女」。

この絵は、ラング司教の主張と全く同じ、“反戦”をテーマに描いた「ゲルニカ」と同時期の1937年に制作されたもので、一見、本作のテーマも“反戦”であることを示唆しているように思える。

しかし、この絵をご存知の方ならお分かりのように、両目は上下離れてあるべき位置になく、肌は青緑色で、組んだ腕も、どう交差しているのか分からない。

一人の女性なのか、二人の女性を重ねて描いたのか、ピカソの創作意図を慮るばかりなのだが、実は一つの被写体を複数の角度から眺め、一つの画面に収めるという“キュビズム”、視覚的実験によって作られた作品と云われている。

つまり、この「手を組んで座る女」は、モデルである女性本人の自意識とは異なり、他者から見た彼女の姿を組み合わせると、“全くの別物”になってしまうことを描いているワケで、となると、このピカソの絵画を見ている時点で、自分の実験が、本来“世界を救済する”ために創造したのにも拘らず、他人の思惑や社会の価値基準の移ろいによって、“破壊兵器”になってしまうことを、オッペンハイマーが既に自覚していたことを呈示しているようにも思えてしまう。

青緑色の女性の顔に、トランス状態に入ったのか、絵画を食い入るように見つめるオッペンハイマーの表情がカットバックする…。

さらに終盤、聴聞会で検察官に「水爆に反対なら、なんで原爆投下に反対しなかったんだ!?」と追及され、ボコボコに打ちのめされたオッペンハイマーの胸の内を代弁するかのように、ストローズが語るシーンがある。

「あいつは赦されたかったんだ。
 だから殉教者のように責められるのも、
 ヤツの計画のうちだったんだ!!」

これは、本作の中で一番、聞いていて背筋がゾッとさせられた台詞だ。

本作「オッペンハイマー」は全米での公開時、「この映画は“原爆の父”を賛美している」という批判も結構大きく聞こえてきたが、むしろその逆で、オッペンハイマーの幼さ・弱さ・愚かさ・狡猾さを厳しく見つめた作品と言えるのではないだろうか…。

スティングが「♪〜オッペンハイマーが開発した“死のオモチャ”〜♪」と歌った意味を、40年ほどの月日を経て、ようやくハッキリと理解した次第である。