映画としてなら『インセプション』や『インターステラー』のほうが群を抜いておもしろい。
この映画でも使われている「時系列のシャッフル」というノーランお得意の手法についても、物語構造と有機的に組み合った『TENET』のほうがおもしろい。
とはいえ『オッペンハイマー』がおもしろくなかったわけではない。
この映画において時系列のシャッフルがどこまで効果的なのかはわからない。むしろ、この点をどのように評価するかによって、この映画の評価は二極化するだろう。
ちなみにぼくはこれを肯定的に評価したいと思う。
前述のように、ノーランは場面の時系列を単線的に示すのではなく、シャッフルしたかたちで提示する「アナクロニズム」の作家なのだ。
すこし確認しておきたい。なぜこのような手法を用いるようになったのか?
この点については、『メメント』を転換点として位置づけることができる。
端的に言ってしまえば、『メメント』以前のノーラン映画はつまらなく、ほぼ確実に寝てしまう。このつまらなさは物語的にも、映像的にも、音楽的にもである。
しかし、『メメント』以後は様相が異なってくる。物語は以前と変わらずおもしろくないが、映像・音楽の表現が変わり、最後まで寝ない映画になっている。
物語がどれほどつまらなく難しかったとしても、映像・音楽で観客を最後まで引っ張っていくのだ。
映像と音楽における表現レベルでの変化。
それは、前者は①「時系列のシャッフル」、後者は②「遊園地のアトラクションのような緩急のBGM・効果音」という表現に発見することができる。
②のような音の表現は、音の発生→音の知覚という単線的な運動である。
そのため、アナクロニズムの作家として評価する際に問題となるのは、①のほうである。
量子力学がわかる/わからないという点が、新旧の物理学者をわける価値観として描かれていた。(もちろん、アインシュタインとオッペンハイマーはその価値観から距離をとっているが)
この量子力学がアナクロニズムなのだ。シュレディンガーの猫の話を調べてもらえばわかるだろう。
シャッフルされた時系列で各場面をみる観客は、量子力学における観察者のように、不確定性のただなかで彷徨うことになる。
あるシークエンスで私たちが発見するオッペンハイマーと、別のシークエンスで発見するオッペンハイマーは異なる。
そのとき、彼は物理学者だろうか?それとも政治家だろうか?はたまた歴史の勝者として立っているだろうか?それとも敗者として?
歴史を認識する行為もまた量子力学のようなものなのだ。かつてランズマンとスピルバーグが論争したように。
アナクロニズムは相対主義といわれるかもしれない。が、科学者オッペンハイマーの個人史を描くためには、この相対的な態度は必然的に導入されなくてはならなかったのである。