となりの

オッペンハイマーのとなりののレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
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ようやくみれた。

教養はなかったのが、作劇が上手くて「見させられる」。
しかし、オッペンハイマーが原爆の父でありプロメテウスならば、『オッペンハイマー』の父であるノーランとは何者なのだろうか。

とにかく「見させる」ちからが強く、トリニティ実験の起爆シーンは、その結果がどうなるのか、それが何をもたらすのかを知っていても、否応なく「見させられる」。
そのちからには抗い難くあるようなものがあり、登場人物たちの視線と同化させられる。
しかも、観客は、サングラスもなしに、身の危険もなしに、「見る」のである。
立ち上がる爆炎は、それこそカント的な意味での崇高を感じさせるようではないか。

ここで、観客は原爆を開発した科学者たちと視点を共有するわけだが、それは、映画「装置」のちからによるものであり、それを作ったノーラン(たち)によるものだ。
そうである以上、劇中で語られる科学者の「責任」は、ノーラン自身にも言われるべきことだ。
本作が何億ドルをかけて撮られたかは分からないが、ノーランほどの監督が自分自身の影響力を知らないはずがない。
実際に、オッペンハイマーが歓声を浴びたように、この作品はオスカーを取ったわけだが、ノーランは、このおそろしくも力強い映画を作ったことの責任をどう考えているのだろうか。

問題なのはやはり、ノーランが意図的に広島や長崎の人々を映さないことを選択している、このことにある。
爆炎は撮り、オッペンハイマーの道徳心は撮るが、広島と長崎の悲惨は映さない。
劇中のオッペンハイマーでさえ、目を背けはしたがマイクロフィルムを見ているというのに、私たちには「目を背けさせる」ことさえ許さない。
このコミットメントはどういうことなのだろうか。

無論、同様の責任は、例のミームを参照するまでもなく、映画を見る側のわれわれにも跳ね返ってくる。
私たちが爆炎のイメージに見入ってしまうなら、その意味を考えるべきだ。
その意味で配給のビターズエンドはえらいと思う。

たかがアメリカ・ローカルの問題を世界の終わりなどとのたまうのは癪だ(安全保障と祖国への忠誠心のレトリック!)が、世界なるものも虚構に過ぎないのだから、アメリカは適度な良心の呵責でももてばいいのだろう。
(これは悪口だけど)

あと、事前に時間軸の入れ替えについては知っていたけど、別に伝記物の構成としては妥当だろうし、ある程度以上のオチが分かっている人物のドラマを盛り立てる最善の手法だろう。
(これも悪口だけど)
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