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オッペンハイマーのKotaroSatoのレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
2.3
クリストファーノーランの映画は好きで結構見てきたつもり。
でも今回だけは楽しく、面白くは見れなかったのが結論。

映画は芸術の一種であり、また今回の映画はドキュメンタリー要素も含む。であれば、芸術、ドキュメンタリー作品として、客観的に評価すべきであることは頭では理解している。
むしろ鑑賞前はその点を重視ししなければいけないと感じていた。フラットな見方をしなければいけない、と。

でも、できなかった。

広島や長崎で起きたことを小さい頃から写真集や資料館、小学校に置いてあったはだしのゲンの漫画で、知ってきていた自分にとっては、この作品が一芸術作品であり、映画界の巨匠監督や洗練された俳優陣が演じているものだとしても、気分良く鑑賞できるものではなかった。

特に原爆の実験が成功した時の祝賀の場面は、科学者たちからしたら任務をようやく達成できたのだから大喜びするのは理解できるし、自分もそういった環境に置かれたら喜んだりするのだろうと考えたが、結果があまりにも酷いことを認識しているからこそ、見ていられなかった。

今回は原爆がテーマだったが、兵器で言えば他にも枯葉剤やナパーム弾など他にも酷い結果をもたらした兵器は数限りなくある。
こうした場面は語られていないだけで数多く今までも存在したのだろうと容易に想像もできた。

分業化が進み、科学と軍事が分担され、各々の正義を貫いた結果こういったギャップが生まれ、オッペンハイマーも苦しみ、広島や長崎で被爆した人も苦しんだのだろう。

歴史としてはその後冷戦となり、核を所持する国が生まれ、核を抑止力として扱っていく流れになる。
この流れもオッペンハイマーや周囲の科学者、政治家たちは予測していたのであろう。
原爆の原理が分かった時点で、原爆の威力がわかった時点で、彼らは彼らで苦しんだのだろう。

今考えると、彼らの苦しみも理解しなければ、真に戦争が終わったとは言えない気がして、無理して理解しようとしたのかもしれない。
までも、頭と心ではやっぱり違った。自分は気分よく観られない場面が多かった。

あと、日本人の精神性が列強国から見ると脅威だったことも理解できた。我々からすると理解できるし、状況によってはその国民性が戻ることもあるのだろうなと考えたりすることもある。その精神性が脅威だったのだとすれば、その精神性をもう一度取り戻して軍事ではなく芸術や観光、経済に注ぐことができれば、日本は色々な価値を生み出せるのではないかなと思った。皮肉にもその日本人の諦めない心が核兵器を作ることになってしまったのは、悲しい気持ちになる。

アメリカ側から見た太平洋戦争の映画は毎回こういう気持ちになりながら観るので、辛い。

ダークナイトの同窓会かと思うほど観たことある役者がたくさん出てきたのは面白かった。アーカムの精神病んて警察に化けたやつとかゴードンの同僚とかもいたから途中で出てきたかっこいい人をトム・ハーディと見間違えちゃったよ。マイケルケイン出てこなかったな。流石にか。
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