シシオリシンシ

オッペンハイマーのシシオリシンシのレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
3.9
人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない
(『堕落論』著:坂口安吾 より引用)
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本作はタイトルの通り、「原爆の父」と呼ばれた科学者オッペンハイマーの半生を綴る作品ではあるが、三つの時系列と視点を複雑にシャッフルさせ素直な自伝記にあえてしていない。
見方を心得なければ意図もテーマも伝わらない難解な映画と見限られてしまう作品になるだろう。
多分だが時系列を順番に揃えて少し編集さえすれば「小中学生にも分かるオッペンハイマー」としてお話は成立する。(件のシーンは、まぁ…うん…)
近年、クリント・イーストウッドが撮っている歴史上の人物の知られざる一面を静謐かつ叙情的に描いた自伝映画のように、大衆の心に強く響くエモーショナルな作品になったんじゃないか?

けれどそうはしなかった。なぜか?

それはクリストファー・ノーランは観客にオッペンハイマー視点の記憶を体験させ、乱雑に散らばった彼の足跡を観客の脳内で能動的に組み立てさせ、自発的に彼の功罪や人間性について各々で考えさせることが目的だったからだと、私は思う。

本作では以下の3つの時間軸が描かれる。

①マンハッタン計画による原爆開発からトリニティ実験、そして広島・長崎への原爆投下まで

②54年の水爆開発に反対したオッペンハイマーがソ連のスパイと疑われたことで起こる聴聞会

③59年のストローズ視点の公聴会のパート(ここが白黒映像なのに一番未来の時系列)

これら3つの時間軸と視点がカオスに入り乱れ、さらに3時間ずっと隙間なく重要な情報や登場人物の感情の機微、情勢の変化が次々と目まぐるしいスピード感で展開され、シャッフル演出のタネが明かされる終盤までは作品の意図を汲み取るのが難しい作りに"あえて"している。
本作は特定の登場人物に安易に感情移入させることや原爆の功罪の是非を殊更にクローズアップすることはしていない。
それは、たとえどれだけフラットな視点で映画を作ろうと大なり小なり送り手側の思想が混入し、それがプロパガンダとなり、白か黒でオッペンハイマーを所業を処すことになる可能性をはらんでいる。
そういう一面的な回答に観客が至ることを防ぐために、映画を観終えた後で能動的に史実と向き合うことを推奨するかのごとく時系列をバラバラにしテロップや解説台詞など分かりやすいギミックを排したものになっているのだ。

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人間は美しいものや楽しいことを愛する。贅沢や豪奢を愛し、成金が大邸宅を造るように、優れた科学者が自分の理想を実現するのも、それは万人の本性であって、軽蔑すべきところではない。
そして人間はそれらを愛すると同時に、正しいことも愛す。人間が正義を愛すということは、楽しいことも悪いことも欲する心と並立することに意味があり、人間の倫理の根元はここにあるのだ。
(『デカダン文学論』著:坂口安吾 
『UN-GO 會川昇脚本集 』より引用)
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オッペンハイマーという男は、かたや道徳心や愛国心を語り、同胞であるユダヤ人のためにナチスより先に原爆を作らねばという責任と使命感を持ち合わせながら、かたや様々な女性と平然と不貞をおかしたり原爆の開発に成功したときは嬉々として喜びを表したり、(日本人目線では)不謹慎が過ぎるジョークで被爆国を茶化したりする。
しかし原爆を落とした後で自らの所業の途方もない恐ろしさを実感し、被害を受けたヒロシマ・ナガサキの当時の惨状の写真から耐えきれず目を背けてしまう。
のちに原爆より強力な兵器・水爆の開発を推進するのに否定の立場を取る。しかしそれが過ちを繰り返してはならないという正義ゆえの行動なのか、それとも自分の原爆より優れた兵器を実現させたテラーへの嫉妬から来る自尊心ゆえなのか……。
そういう何色とも断定できない感情や倫理観のグラデーションが一面的な見方を拒絶する。

それにつけてオッペンハイマーは罪の向き合いかたには非常に不誠実ともとれる態度を端々で示していたのが印象的。大戦中の原爆開発において道徳的には反対と表明しながら「私は物理学者だ」「爆弾の使用を決めるのは私ではない」と責任を転嫁するような態度を戦中戦後とも一貫して繰り返しており、原爆の被害の結果を見て良心の呵責に苛まれはするもののどこが自己憐憫が過ぎる態度が良くも悪くも人間らしく、許す許さないは別として「とりあえず一発殴らせろ」と言いたくなる惨めなろくでなしなのだ。

本作はオッペンハイマーの罪の反省を促す映画ではなく、彼の人間性(好奇心・野心・愛国心・良心・不貞・リーダーシップ・責任逃れ・自責・友情・嫉妬・高慢・功名心・盟友を尊敬できる心・盟友の研究を否定したい自尊心)、良き面も悪しき面も赤裸々に暴き出して、矮小な人間が核という神の火を世界に生み出した後に、
どう生きたのか?
どう裁かれたのか?
またはどう許されたのか? 
それは観賞後に我々が持ち帰るべき宿題として残される映画になっている。

このノーランの作り方を「観客を信頼した誠実さ」と取るか「観客を無視した不誠実さ」と取るかで、評価の変わってくる作品になるのだ。

私の至った回答として、この映画が描いた「原爆の父」オッペンハイマーは、
「祖国を救った偉大な科学者」にも
「世界を変えた悪魔の科学者」にも
「全ての罪を背負った殉教者」にもなりきれなかった、
ただのちっぽけな人間でしかないことが彼の本質であり、またそれが彼にとっての救いなのだと、そう思えた。
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