3時間に及ぶ大作のなかで、原爆の父たるオッペンハイマーの人生が追われているが、それは単なる彼のライフストーリーではない。
映画の構成から言えば、プリンストンでアインシュタインが彼に何を語ったか、というミステリーであり、主題から言えば、社会が、世界が、どのようにして英雄とスケープゴートを仕立て上げ、歴史を形成していくか、という構造の分析である。
When they've punished you enough, they'll serve you salmon and potato salad, make speeches, give you a medal, and pat you in the back telling all is forgiven. Just remember, it won't be for you... it would be for them.
大いなる世界のなかで、人々は自意識と嫉妬と欲望に駆られて何かを成そうとする。あるいは、成してしまう。
オッペンハイマーが讃えられ、蹴落とされ、赦されていくのは、表層的に見れば、栄光と陰謀の渦巻くヒューマンドラマだが、それは世界の摂理でしかないのかもしれない。摂理でしかないとするならば、そのことがもたらすのは絶望である。しかし、その絶望の世界でわれわれは暮らしている。
ひとりひとりの市民が、意識を高く持つべきだ、とは思わない。このおぞましい兵器を生み落とし、それがいつ頭の上に降ってきておかしくない世界。だが、それはもはや絶望ですらないのだ。なぜか。われわれは、オッペンハイマーどころか、原爆や水爆の存在さえも忘れているから。当然のことである。
だが、われわれは思い出すべきだ。それは、オッペンハイマーの人生でも、核兵器の威力でもない。われわれにとってそんなものは現実感に乏しい。そうではなく、オッペンハイマーや科学者たちを翻弄し、彼らを称賛し中傷しまた称賛する世界のことを思い出すべきなのだ。集団を見渡したとき、そのことは、われわれにとっても生々しいほどに現実感に満ち満ちている
凄まじい映画だった。そしてIMAXの威力を知った。