ワンダフルデイズモーニング

Funnyのワンダフルデイズモーニングのレビュー・感想・評価

Funny(2021年製作の映画)
1.5
 劇場では変顔アクションの都度笑いが起き、そしてまたトークショーの監督の弁によれば海外の上映の際にも爆笑が起きていたということだが、私は一度も笑わなかった。むしろ戦慄を感じていた。ハルミが変顔をするたびに端正な顔が歪み変形することへのシンプルな恐怖があったというのがその大きな理由だが、観客の多くが笑い/しかし私は笑わなかったという現象に私は二つの感想を持つ。

ひとつは、ハルミが悩んでいる癖を他人たる観客が安全な位置から笑っているという現象に対する倫理的な違和感である。フィクションに対して過剰なリアリズムを振って不謹慎だから笑うなということでもないのだが、単にふざけているわけではなく発作として設定されており、なおかつそのことがハルミの人生を圧迫しているのであるところの「変顔」を、私たちは変な顔という表象だけ捉えて笑っていもいいものなのだろうか。そして爆笑をしたその口が、映画を見終われば「素敵だった」と動くこともあろう。この、観客という立場が作品というものへ取る無自覚な軽視の態度にも、私は怖さを覚える。

 ふたつ目は、しかしむしろ「笑う人がいる/笑えない人がいる」という反応の差異こそが映画館という空間で見知らぬ多くの他人とひとつの映画を鑑賞する体験の醍醐味ということで、その点において私はこの作品を映画館で観てよかったなと思う。


 以上が劇場体験としての鑑賞について私が思ったことである。
ここからは鑑賞を通して作品について私が思ったことを書いてみるが、私が印象としてまず抱いたのは「あやうい」ということだった。あやうい というのは、上記の倫理的な違和感にも通じるのだがしかし観客がどう捉えるかというよりも、作者は世界認識として特殊な癖を持った人たちをどのように捉えているのだろうかということへの疑問があるということだ。
 最も表面的な具体例を挙げればなぜこの作品のタイトルは「funny」というのかが私には腑に落ちない。funnyを「笑える」という意味で捉えるのはあまりにも短絡だとは思うが、しかしfunnyというタイトルが誘発した──というかその語句の意味によって観客が許容された気分になって起きた笑いもあると思うのだ。
では「笑える」ではないにしても、たとえば「変だ/変わっている」という意訳で捉えてしまうのもどうなのか。作者が、悩みとして癖を抱える彼女たちを「変わっている」と見做すことは、彼女たちを疎外した「普通の」人たちと同じ非寛容の視線を送るということになる。たとえ「funny」の名にもっと深慮された意味があるとしても、"funny"を辞書で引けば「笑える」「面白い」がまっさきに出てくるのである。深い意味を込めるよりもその語の持つ意味なんていう単純なもので迂闊な態度や私のように浅薄な邪推を引き起こすくらいなら、名付けずそれらを防止する方が、こういうセンシティブなモチーフを、センシティブな感じで扱うのであれば必要に思う。

 また、「忌避される癖」を持つ孤独な魂を持つ者たちが寄り添い合うというのがこの作品のあらすじというかテーマなのだが、ラストシーンで彼女たちは自分たちを変な目で見た教諭を「なんか変わった人だったね……」とクスクス笑う。この笑いというのはたとえば観客がハルミに向けていた笑いであり、それは非寛容に起因している。周囲から疎外を受けている彼女らが、自分たちの受けた傷と他人に向ける非寛容さを別個としていなければああいう笑いは起きない。かくも人間とは己を棚に上げて他者に迂闊な態度を取るのかと私は思わされたが、なんというかそういう皮肉や風刺のような冷徹なメッセージはこの作品の諸々の要素とマッチしていないように思う。一見心温まるように見せかけて強烈な毒を持つ…という作品もあろうが、この作品からは読み取れない。そうなると、やはりただあやういだけに見える。
クライマックスで彼女たちが手を握るアクションに象徴されるのは、同じ痛みを抱えた誰かを認める ということではないように感じる。なぜならば中学生の子は既に家庭教師のハルミに心底懐いており、そもそも彼女からハルミへネガティブな矢印は引かれていないからだ。むしろ手を握るべきはハルミから女子中学生へだろうと思う。三者面談のシーンで槍玉に挙げられて矯正を促されて心が恥ずかしかったりつらかったりするのは女子中学生の方なのだから。
 それでも感想を眺めると「心のつながりを感じる」という声を散見するが、私は口あたりの良さに丸め込まれているのではないかというような感じがするのだ。口当たりというのを言い換えれば道徳の教科書みたいなまとまりのよさに。それもあやういと思う。彼女たちが抱える痛みというのはああいった特殊性を帯びずとも描ける。なぜなら私たちはそもそも全員が別々の他人で、同じ映画を見ても笑ったり笑えなかったりするのだから。
 主人公の二人が抱える苦しみというのは「社会的」な問題でしかない。いかに現代の人間というのは社会的な事柄にしか悩みを見出せないのかという発露にも思えるがそれはまぁどっちでもよくて、彼女たちの抱える悩みを「社会的な問題」の想像力の中でだけ扱っている事の方が気にかかる。普遍的に他人同士が持つ他者性についての軋轢、そこからいずる悩みというものは、「社会的に弱者」というように見做され扱われる"特性"によって描かれる必要なんかなく、むしろモチーフに弄ばれないことを私は願う。なぜならばそういう社会的な弱者をモチーフにした作品は、対象が持っている特性だけでなにかの描かれている気分に陥りやすいからだ。もしくは、そういう対象に、無痛の私たちが無痛のまま持つ印象をまるで作品そのものの印象に複写されることはままある。
 私たちは所詮、他人の痛みが分からない。自分の痛みも他人には分からない。分かった気になることの傲慢さ、もしくは相手の痛みを理解しようとすることで押しつけてしまう暴力がある。
 実際に起きている社会的な誰かの何かを描くということは、そういうおそれの地点からスタートして、問答無用な他者性に強く鋭敏であろうとしながら、安易なエモーショナルの裏に起きる分断ではない本当の意味での多様性を見出さんと挑戦をすることにしか、意義はないのではないか。