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アダム:エピソード3のdm10foreverのレビュー・感想・評価

アダム:エピソード3(2017年製作の映画)
3.7
【放棄】

先に観た「ADAM Episode2 THE Mirror」に続けて鑑賞。

場所は変わって、とある荒れ果てた土地にポツンと存在する野ざらしのコミュニティ。
そこは共同体から逃れてきた人間にとって安息の地であった。

そこに命からがら辿り着いたマリアン。
彼女は共同体の生活の中で毒に侵され皮膚も病んでいた。

そこに現れる救世主。
彼はマリアンの救済を約束する。
しかしその地に暮らすのは「良い生活を求めて人間性と決別した者たち」。
つまり「個性」も「欲」も「優しさ」も、あらゆる人間性を捨て、ただの器としての人間の形のまま「機械のように」生きることを誓ったものたち。
そこで提示されるマリアンの救済。

救世主はマリアンに、1人の機械人を殺すように命じられる。
その機械人こそマリアンの実の兄であり、マリアンの為に他人の薬を盗み、その咎で捉えられた挙句姿を機械に変えられたジェイコブであった。

「君が純潔を求めて反乱を起こすとき、機械を破壊すると誓うのだ。機械に囚われた人間を殺すと誓うのだ」

それは「機械」の中に閉じ込められた「(人間の)命」を奪うということであり、同時に自らの意志でマリアンの中にある「人間性」との決別を差せるという儀式でもあった。

信念は行動が示す。
言葉ではなく行動だ。

それは「思考を捨てろ」という踏み絵。

マリアンは死への恐怖からジェイコブを破壊し、完全に人間性を放棄する。

これまでのヒーロー映画であれば、人間が持つ「不確実性」「意外性」「欲深さ」など、機械では計算できないような神秘的な能力によって解決されることが多かったが、この作品(シリーズ)ではその不確実性が逆に「人間自身の脆さ」にも繋がっているように描かれている気がした。
どれだけ人間が知恵や勇気を振り絞っても勝ち目のない絶望的な世紀末。

そもそも「共同体」というコミュニティが存在するという事は、機械にとって人間は敵とみなしているわけではないのだろう。
ただ、人間とは「迷い、苦しむ不幸で愚かな存在」であり、その感覚に苛まれ続けるのであればいっそのこと苦しみを終わらせてしまえばいい、それくらいのドライな結論。

そして機械の管理の範疇を超えた勝手な行動(それこそが人間らしさ)をとる者は、人間であることを剥奪され、かといって完全な機械として生きることも許されないエグザイルとして「自らのバッテリーが尽きるまで生きること」を与えられる。

それはある意味では完全な機械となって人間としての意識すらも消される事よりもキツい仕打ちなのかもしれない。

果たして人類が最期にたどり着いた場所は「エデンの園」となりうるのか・・・。

これも長編で観てみたいと思わせるクオリティでありながら、あえてこの尺で留めておいて、あとは観た人の中で世界観を膨らませてください‥的な放置プレイなのかもしれない。

う~む、ニール・ブロムカンプめ・・・。
すっかりその手法にハマってしまったではないか。
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