湯っ子

イニシェリン島の精霊の湯っ子のネタバレレビュー・内容・結末

イニシェリン島の精霊(2022年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

本当にめっちゃネタバレしてるので、観る予定のある人はスルーしてください。あと、くどくど書いてます。ご容赦ください。











私の近くに、パードリックによく似た人がいて、その人を思い出さずにいられなかった。良い人なの。意地悪とかイヤミとかぜったい言わないし、しない。そのかわり、思いやりとか共感とかがとてもうすい。
たぶん、全く悪気はないけど、他人に興味がないんだと思う。だから、他人に対する想像力もない。だって、意地悪やイヤミも、こんなこと言ったりやったりしたら、相手が嫌がるだろうなってことを想像してやることだし。だから、私にとって意地悪な人が、ほかの誰かにとっては思いやりや気配りのある人だったりするんだ。
パードリックは、コルムが本当に自分といて楽しんでいるのかどうか、感じ取ることができなかったんだろう。

だからと言って、コルムがあんなにしてまでパードリックを遠ざける理由はなんなのだ。映画から帰ってきて、町山さんのYouTubeを聴いて、なるほどと腑に落ちた。ヒントは前作の「スリー・ビルボード」にあって、そこでも描かれていた「ホモフォビア」なんだそうだ。すると、教会での懺悔室の会話だとか、印象的に映される十字架やマリア像だとかに合点がいく。この時代、この小さな島で、同性愛者のレッテルを貼られたらまともに生きていけなかったのだろう。「静かに過ごしたい、作曲をしたい」のも事実ではあったのだろうが、それで指を落とすほどの動機になると思えないもの。

コルムがパードリックに別れを告げた理由は置いといたとしても、このふたりの攻防に、アイルランド内戦を含めた戦争や紛争を重ねる人もいれば、離婚騒ぎを重ねる人もいるし、ここまで極端なことはなくても、パードリックの立場だったりコルムの立場だったりの経験をしてる人がたくさんいるはず。奇妙な話のようでいて、普遍的な話なのかもしれない。

憎しみという感情を抑えるのはむずかしい。
パードリック以上に島の人たちにバカにされてるらしいドミニクは良いこと言ってた、「新しい自分にならなくちゃ」って。あの時点でパードリックが、憎しみや執着を捨てた「新しい自分」になれていたらどんなに良かったかと思うけど、それは本当にむずかしいことなんだろう。「新しい自分」になろうとしたドミニクの行く末も皮肉すぎる。

それでも、希望は残されていた。島を出たシボーン、危険やトラブルにさらされることはあるだろうけど、彼女は初めて自分自身を生きる自由を手に入れた。パードリックとコルムも、憎しみをぶつけ合った果てに、何か分かち合うものがあったような…、あれ?これって前作「スリー・ビルボード」に似た着地かも。そして、あれだけの戦いをして、パードリックは大切なジェニーを、コルムは住む家を失って、やっとふたりは「新しい自分」になれたのかもしれない。

謎が残るのは、死神みたいなお婆さん。邦題では「イニシェリン島の精霊」とあるけど、原題にある「バンシー」とは、アイルランド及びスコットランドに伝わる、死を叫び声で予告する、老婆の姿をした妖精なんだとか。
シボーンが水辺で裸足で佇んでいるところを、お婆さんがおいでおいでしていたり、ドミニクがその水辺で見つかったことを父親に知らせるのもお婆さんだったりするのも意味深。
あと、かわいいロバのジェニー、コルムの指を食べてなんで死ぬんだろう…コルムは思いもよらなかっただろうが…指に何か毒性のあるものでも塗っていたのか、それともコルムの身体が何かしら毒性を持っていた(病気だった)のか?謎は尽きないな……


<2023.2.11追記メモ>
ニーチェの言葉
「おのれは友のうちに、おのれの最善の敵を持つべきである。君がかれに敵対するときこそ、君の心はかれに最も近づいているのでなければならぬ。」(「ツァラトゥストラかく語りき」より、私が知ったのは齋藤孝「人間劇場」にて)

作中、ふたりはずっと真正面に向かい合っている。ラストではじめて、並んで同じ方向を見ている。
湯っ子

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