モジャコジ

パリ・オペラ座バレエ シネマ「プレイ」のモジャコジのネタバレレビュー・内容・結末

4.1

このレビューはネタバレを含みます

創世記が下敷きとなっているであろう舞台は宗教テキストとしてではなく、絵本や紙芝居的な見立てとして、わたしたちに開かれている。古典といかに戯れるか、悦ぶ身体が“産まれ直す”とは?

あらゆるものを何かに見立ててごっこ遊びをする。

6万個(!)の緑色のボールが雨のように降り注ぎ遊び出す。
(予見、傘をさして凌ぐ灰色の教諭)
それは波となり海へ流れる。

ーー神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。

海か、草地か、はたまた乾いた大地に種子として飛び込んだものども、それは人の人以前、悦びが悦びであったとき。

カラーボールに埋もれ起き上がるとメガネにスーツ姿の人、人、人、雑踏、時間が足取りを重くする。
歩く足に黒く光る革靴、ここから場面は明らかにこの私たちの日常である現代へと変貌する。

ここからを後編的に捉えるのであればAlan wattsのLife has no destination(おそらく)の挿入は露骨だなと感じる。
というのもラストシーンまでのラインが見えてしまい意図せぬ目的が立ち上がってくる。(ラストシーンが丸ごと目的化されてしまう)もう少し上手く隠しつつ見せて欲しかった感がある。

眼鏡が服の上にぼとり、盲目となった人間は、我々はどこから来て、我々は何者で我々はどこへ行くのか、という月並みだがそのような問いの前に2時間が経っていた。


ここまで書いてきたが残念ながら重要なのはあらすじなどではなくタイトルにあるところの「PLAY」である。
ダンサーの身体は変態する。犬かと思えば草の上をうねる尺取虫、鳥になり、ファンタジーの名のないあの生き物(果たしてそれは生命か?)、時に幾何学形態そのものになりすましたようですらある。
そして見えない線の上を落ちないように渡るこどもの遊び。

私の見逃した数多の遊びが散りばめられて嬉しい。ダンサーは遊びの中でより多くを遊んでいるに違いないことを確認し、私も遊ぶぞ〜と腕を振り回している。


しかし編集は、というかカメラの寄りが多いのに最後のオーケストラや歌手にもっともっと寄るべきだったんじゃないかな。
舞台の構造上遠い場所にいる演者や舞台の転換、ボールを照らした人も含めてもう少し上手く写せたら素敵だったな。
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