アニマル泉

香も高きケンタッキーのアニマル泉のレビュー・感想・評価

香も高きケンタッキー(1925年製作の映画)
5.0
馬のモノローグで展開するフォードの異色のサイレント映画。ロバが主役のブレッソンの「バルタザールどこへ行く」を思い出す。フォードは「馬」の天才だ。本作はフォードしか撮れない馬への愛に満ちた映画である。
馬がのびのびと走る姿が素晴らしい。馬は濡れると官能的になることも判った。
本作の白眉は街での母馬バージニア・フューチャー号とかつての馬主ボーモン(ヘンリー・B・ウォルソール)と調教師ドノバン(J・ファーレル・マクドナルド)のすれ違いの場面だ。まず今や警官になったドノバンを前後に往来する車のなかで捉えるショットが良い。雨上がり、ドノバンとボーモンが再会して、そこへ今や荷馬となった母馬が来る。二人は会話して、まさか荷馬となった母馬に気づかない。母馬はボーモンが何気なく触った瞬間に馬主との再会に気づく。そして何とか二人に自分を気づいてもらおうと首を振り向いたり、足を地面に蹴ったりする。しかし二人は気づかない。誠に切ない。信号が青になり母馬の荷車は去る。ボーモンは道路を渡って別れた娘バージニア(ピーチェス・ジャクソン)と抱き合う。奇跡のシーンである。この直後、警察署で雨に濡れたレインコート姿のドノバンが巡査部長に昇進する。
しかし冷静に考えると本作ほど出鱈目な映画もない。本作は馬の気持ちを語っているわけではない。膨大な馬のモノローグの字幕は勝手につけた大嘘だ。映像に映っている馬が何を考えているのかは判らない。フォードの仕掛けであり悪戯だ。そうなのだが、このすれ違いの場面の美しさ、気高さ、至福は全く揺るがない。おそらくここに映画の本質が露呈してしまったのだと思う。映画はそもそも出鱈目さが根底にある事、しかし映画は人を感動させる事、この矛盾が映画であり、面白さなのではないか?
本作は前半が母馬の活躍、後半が娘馬コンフェデラシー号の活躍で構成される。母馬の突然の事故が衝撃的だ。一気に劇的になる。
母馬とボーモンのすれ違いが手で触ると事と同じく、ボーモンとバージニアの再会も触る事で表現される。この場面はドノバンの妻が皿を投げる事から始まる。ドノバンの食卓に招待されたボーモンの後ろからバージニアが現れて、そっと手で目隠しする。感動的な再会だ。二人は顔を見合わせてない。父親と肩越しの娘が見なくても触れるだけで判るのが感動的だ。かたや母馬とボーモンがすれ違ってしまう事と重なって味わい深いエモーションが起きるのである。フォードの至芸だ。ちなみにこの室内場面は正対のフルショットだ。いまではセットっぽくなるので、アングルをつけたり、何かを手前に引っかける画面を作るのだが、このスッポンポンの正対フルショットが成立してしまうのが不思議だ。このショットはグリフィスが得意とするショットである。フォードはグリフィスの後継者である。グリフィス的フルショットがフォードの根幹となっている感じがする。
「見せない事」もフォードの至芸だ。母馬の射殺は硝煙で見せて、そのものは描かない。ドノバンが母馬を取り返しに来る場面、ドノバンと与太者がさあ殴り合いになるというところで黒画面、そのあとはオフにして描かず子分二人がドアごしに聞き耳を立てている、窓が割れて突き飛ばされた与太者とドノバンが室内に転がり込んでくる、この流れが素晴らしい。
ラストに母馬と娘馬が仲良く並ぶショットが感動的でユーモアに溢れていてフォードしか撮れないショットだ。実に誇らしげに見えるのが不思議だ。本作も「母親」「親子愛」というフォードの十八番のテーマなのである。しかも馬の親子愛だ。出鱈目、大嘘なのに感動的で奇跡の傑作である。映画が何たるかを体得しているフォードの凄みが見えた。
FOX サイレント。無音上映。
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