ミレールは『伴奏者』しか観てないけど、それも占領下フランスが舞台だったのでこのオブセッションは一体何なんだと思ってたら、この映画は直球でそういう作品で流石にびっくりした。喪に服されなかった秘密の憑依。>>続きを読む
超かっこいい映画。こんだけ長いとさすがに退屈してちらちら腕時計を確認したが、その生きられた退屈はこの映画の本質的な部分を成している。習慣という深淵。「私は、所与から、所与でない他のものの存在を推断する>>続きを読む
良すぎる。どういう訳か『リバー・オブ・グラス』より90年代USインディ感ある。PavementとかWheat、Built to spillみたいな空気感が本当に嬉しい。粗いシネマヴェリテ感が狙ったもの>>続きを読む
3回目
アンゲロプロスの映画をかなり見た感じ、彼の長回しとはつまるところ、同一画面における重心点の焦点化と脱焦点化といってもいいんじゃないかと思った。全身の筋肉のあちこちに力を入れたり抜いたりして身>>続きを読む
贈与論的な責任が伴う対象関係を回避したいという欲望がヴォイヤリズムなのだとしたら、あらゆる映画観客はこの映画のレオンに似ている。観客が映画の現実に何一つ与えることが出来ないように、贈与されたダイヤの指>>続きを読む
フィクション映画は映像の前言語的な意味内容を、あたかも予め存在しているかのような(言語化可能な)物語のために否認・制限することによってしか機能しない。濱口作品のリアリティは、このフィクション映画の本来>>続きを読む
いかにも精神分析(父の法、エディプス、フェティッシュ…)を逆算したみたいな話で最後に母なるものの称揚!という感じの象徴主義には辟易するが、映像を直線的な語りの手段としてではなくある種のドキュメントとし>>続きを読む
エロイーズの真顔の解体作業。フードを被った後ろ姿から、マリアンヌが窃視する横顔、モデル承認後のこわばった正面顔を通過し、絵画に書き込まれたあの微笑みへ。面白いのは、この現実の顔の「解体」と反比例するよ>>続きを読む
映像それ自体には(言語的な)読解のイントロダクションが欠落していることがよく分かる映画だった 漱石の小説ぐらい人が前触れなしに訪問してくるのが嬉しい あと『アガタ』のポスター