映像それ自体には(言語的な)読解のイントロダクションが欠落していることがよく分かる映画だった 漱石の小説ぐらい人が前触れなしに訪問してくるのが嬉しい あと『アガタ』のポスター
震災の瞬間性について語ることが、反対に各々の生の持続性について語ることになるという逆説。「その時」とは、「それまで」と「それから」によってしか語りえない。
いろいろ速すぎるが、それが一本の直線ではなく束が飛び込んでくる様な。何かしながら何かをしつつ、何かをしている
ロッセリーニがシモーヌ・ヴェイユに傾倒していた時に撮った映画。子供の転落死=重力法則をやり直すこと。「二重の下降運動。重力のすることを、もう一度愛によってやり直すこと。この二重の下降運動こそ、あらゆる>>続きを読む
言葉が完結した点として孤立せずに、発話のその都度に引かれていく歪んだ線だけがある。常に「ただなか」にあるものとしての会話。コミュニケーションではなく、コミュニケーションがそういうものとして生起してくる>>続きを読む
2回目
この映画も音声が名指す身体のありかが映画空間を拡張してる。でもやっぱり音声の問題は同時にフレーミングの問題でもある。この映画において運転席と助手席での対話は形式的には正面の切り返しだが実質的に>>続きを読む
ウェルズ、溝口、アントニオーニ、アンゲロプロス的な系譜の集大成みたいな映画。キュスティーヌとの対話は「声は特定の身体に繋留されなければならないが、それとまったく同様に、身体は特定の空間に繋留されなけれ>>続きを読む
交際25周年記念で酒とケーキを買って仕事から帰った男が妻を抱き上げたせいで小さな子供たちで溢れかえる一室の電球の灯りが消え、そのせいで雑誌が読めなくなったモニカは父親を酔っ払い呼ばわりしたために殴られ>>続きを読む
オーブンの傷と運命論、可能世界
「個体性そのものが傷なのである。…人間は傷のまわりで変容し、そこに刻み込まれた消去不可能な描線を浮かび上がらせるだろう」(ジョー・ブスケ)
All except for Cain and Abel and the hunchback of Notre Dame, everybody is making love or else expec>>続きを読む
カッティングの瞬間、一時的に時間の底が抜ける。その間隙に横たわるものを見ている