最後のワンカット。開きそうでいつまでも開かないエレベータードア。閉まりそうでいつまでも閉まらないエレベータードア。観客とカメラがまるで一体になった緊張間、空間を、二人が解放しまた抱き合う瞬間、「ああ最>>続きを読む
ひたすら長くはあるがあまりにも良いシーンがあった。
謝った息子をフレデリックが抱きしめ背中を撫でる。あの音。そしてあの瞬間的な緊張の弛緩は、二人が本当の親子であることに由来していたのだと納得した。
冒頭、ゴダールの言葉の引用「映画は嘘をつくが、スポーツは真実である」、そしてスポーツを伝えられる"良い映画"とは?の提言をし、初期のテニス映画から辿っている、これはめちゃくちゃアガッた。(それからのジ>>続きを読む
統制された役者の動きから浮き彫りになる、ロバを置く恣意性
純朴な眼を通して見えてくる愚行
羊たちは消え、人間はどこかへ行き、眠ったバルタザールは私達の目では死んでしまった
移動を繰り返す男、目的地はあるものの、放浪者の様で、遂には家へ帰り横になる。独白する。背中合わせの虚無と死に渦巻く(そんなことを彼に言っても、否定されるだろう)。絵具をキャンバスに塗る。
時間的飛躍>>続きを読む
屋敷のファーストカットでさりげなく登場している階段、不連続的なファウストの劇場シーン、smoking
映画を撮る上で考える必要のある、今なぜそれを撮る必要があるのか?なぜ今"東日本大震災"を影に潜めて、石巻の映画を撮ろうとしたのだろうか。
この作品を観て、正直分からない点がいくつかあった。二人はなぜホ>>続きを読む
完成された構図をドスドス切る様にカメラがズームやパンを繰り返すけれど、全く嫌じゃない。
人が集う情景がなぜだか凄く美しい。
横顔+横顔+横顔、雪を滑り落ちるスキーヤーと恋を滑り落ちるアントワーヌ...>>続きを読む
不気味なクロースアップと狭まる空間演出と不意に右から現れる女。変なひとっ。
光と対峙するストローブ=ユイレ。再生、停止の度に点滅を繰り返す光を隣に、フィルムが記録した"光"が二人の前に映し出され、二人はそれを丁重に切っていく(それは恐怖をも含む作業だ!)。光は紛うことなき"正>>続きを読む
シネマにおける"出入り"ならぬ"登り降り"
ドキュメンタリー作家は、単なる撮影者から、個の人間として相手から自然に受け止められるようになる(それは時間のお陰かもしれないしその人の人間性によるかもしれないが)、撮影したまま男性の作業を手伝っている>>続きを読む
ヘンな映画だった。北野武『首』にも通ずるような、文字通り御法度を破るべくして破られた面白さ
見目麗しい松田龍平を観れただけでも満足
冒頭に映像、思考の限界を提示した上で、妙な生々しさを持つ冷徹なカット、そこから想起せられる視、聴による操作
映画はやはり映像で魅せる芸術だと思っているから、あえて全てを写真で表すことで、映像表現に勝る芸術的価値を見出せるのかっていうのをまず考える必要はある。(と思う)
たしかにこれはいわゆるSFの世界線で、>>続きを読む
"右側"って結局なんなんだ、と考えるけど、別に何か分からなくていいんじゃない?だってあくまでもこれは"コメディ"なんだから。オープニングめちゃくちゃ面白いし。
死は選ぶことができるが、私達はそれを選>>続きを読む
まさに生の瞬間である次のカットでは、血の気の無い死んだ妻がベッドの上で寝ている。いや、妻は既に死んでいた、ただあたたかい肉体が夫の隣におり、たまに何処かへ消えたりした。
笑い声、泣き声の異質感
静のための動、終盤の鳥、煙のために用意された混沌、オープニングはブチ上がった
このレビューはネタバレを含みます
作品内のキャラクターがこちらを見つめる行為、それからは彼ら自身の所有する感情、状況を、スクリーンという薄くも硬く、絶対な隔たりからその全てを投げ、訴えてくるような緊張感を感じざるを得ない。
エリセは>>続きを読む
こことよそについての、ここ+よそ、ここ-よそ、ここ×よそによるゴダール的主張と宣言。
分解によって露見するのは、単なる統合の要素でしかないが、わたしたちが二項について考察すべき意味はあるし、それは義務>>続きを読む