ShotaOkuboさんの映画レビュー・感想・評価

ShotaOkubo

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キートンの化物屋敷(1921年製作の映画)

5.0

身体的な不自由がきわめて刺激的な運動を生み落しているばかりか、不自由な身体運動を自由闊達に撮っている。
あるいは、また、化物屋敷で脅えた顔ひとつ見せずにくぐり抜けて平然としていたバスター・キートンのあ
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キートンの隣同士(1920年製作の映画)

5.0

これは自由な水平移動の世界であり、たがいに異質な空間を占有しながらも無媒介的に通じあっているのだ。ここで感動的なのは、物語ではなく、あくまで同語反復的な説得をくりかえす対話者に異議をとなえたり、自説を>>続きを読む

キートンの案山子/キートンのスケアクロウ(1920年製作の映画)

5.0

キートンの説話論的な持続を支えるものとして、われわれはすぐさま「着換えること」の主題を思い起さずにはいられない。キートンの作品世界においては「着換えること(なりすますこと)」という身振りが変化と運動と>>続きを読む

ゴッドランド/GODLAND(2022年製作の映画)

5.0

ああ、凄いことがこの映画では起こっている。時間をどのようにショットに収めようかという葛藤と映画(モーション・ピクチャー)における不動をどうするかという問題が実に見事に画面に収まっている。この映画には、>>続きを読む

ピアノ・レッスン 4Kデジタルリマスター(1993年製作の映画)

5.0

この映画の作品世界は、「ピアノを弾くこと」と「それを聞くこと」という主題が織りあげる錯綜した戯れの場からなっている。文化的に制度化された人物たちが何を聞いたか、そして何を聞かなかったかという点から出発>>続きを読む

パラダイスの夕暮れ(1986年製作の映画)

5.0

カウリスマキの作品は、その徹底した不動性によって物語を動かす。物語が動くとは、人物たちの関係がそれまでとは異るものとなるということにほかならない。
しかし、わたしたちは物語的秩序に埋没することなく、映
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キートンの囚人13号/ゴルフ狂の夢(1917年製作の映画)

5.0

「着換えること」もまた、変化と運動とを物語に導入するのだ。その意味で、小津の映画は言葉の真の意味での衣裳の物語、つまりは充実したコスチューム・プレイなのである。しかもそこでの衣裳は、顕在的な物語をより>>続きを読む

文化生活一週間/キートンのマイホーム(1920年製作の映画)

5.0

何気ない振る舞いがことごとく素晴らしい。例えば、壁が自分のほうに倒れてきたのに、ばたんと壁が倒れたというのに、彼はキョトンとした顔をして地面のドアの隙間に立っている。あんな瞬間は、どんなCGを駆使した>>続きを読む

パスト ライブス/再会(2023年製作の映画)

4.0

映画とは時間との闘いである。時間をどのように自分のほうへ引き寄せ、同時に、引き寄せた時間がことによったら自分から離れていくかもしれないという危惧もあるところに、映画の困難があり、同時に映画の魅力の一つ>>続きを読む

14歳の栞(2021年製作の映画)

4.0

確かに、被写体にカメラを向けることで画面に生成するとらえがたい運動の生なましい現在を捉えた瞬間が刻みつけられていた。

オッペンハイマー(2023年製作の映画)

4.0

この作品には、シナリオを申し分なく視覚化してみせたという達成感が漂ってはいるが、決定的なショットや透明で純粋形態の運動性、感情の軌跡はフィルムに刻み付けられずにいるように思う。

ミークス・カットオフ(2010年製作の映画)

5.0

ライカートは、接近することより、遠ざかることの映画性に充分すぎるほど自覚的なのだ。
その定義などいっさい心得ていない誰もが、この遠ざかる仕草を見て、これこそ映画だと呟かざるをえない。
物語について見る
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ヴェルクマイスター・ハーモニー 4Kレストア版(2000年製作の映画)

-

「こんなものを見たことがない」というタル・ベーラの作品を見る際に生じる感興は、物語の時間と、撮影現場の時間、さらには現在という時間が一致しているような長回しから得られるものだ。画面に張り詰めた時間が「>>続きを読む

デューン 砂の惑星PART2(2024年製作の映画)

4.2

CGにしかできない振る舞いよりも、砂の上を運動する無垢な身体性とか人物の視線とか、そういうものが画面をひどく生々しく輝かせている。

ボーはおそれている(2023年製作の映画)

4.6

この作品は誰かの語る夢ではなく、一種の催眠の力を借りて、わたしたち皆が一緒に見る夢である。ここで言う夢は、夢のすばらしい非論理性によってつながり合う現実の行為の連続、というほどの意味である。
ところが
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落下の解剖学(2023年製作の映画)

4.4

わたしたちは「主観」の言葉の真実の前には沈黙するほかはない。
なぜなら、物語とは、それを信じたり信じなかったりすることができる何ものかであるからだ。それとの距離を余裕をもって計測し、おのれの位置を決定
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エル・スール(1982年製作の映画)

4.2

ビクトル・エリセは、人が安易に詩的なものと信じている画面とは異質の領域で、修辞学的に詩情を漂わせる術を心得ている作家なのだ。
その画面に視覚的に表象されている対象そのものがすでに抒情に湿っているといっ
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ミツバチのささやき(1973年製作の映画)

4.4

この映画の画面に定着しているのは、映画の記憶である。映画的記憶の深みにわけ入るようにして「私はアナよ」の一話は、声としては響かぬが、幾重にも共鳴する振動となって、物語を超えたなにかが、映画を震わせてい>>続きを読む

ジャン=リュック・ゴダール/遺言 奇妙な戦争(2023年製作の映画)

5.0

イマージュの総体(「事物」と「表象」との中間に位置している存在)。映画的記憶を誇ること(映画的環境での引用という仕草)。時間との闘い(時間をどのように自分のほうへ引き寄せ、同時に、引き寄せた時間がこと>>続きを読む

瞳をとじて(2023年製作の映画)

5.0

ショットのさまざまな形式や長さの違いにもかかわらず、そこに動員される映画的な技法は、切り返しというごく単純なものにすぎない。
それでいながら、この作品は映画が不意に映画自身と出会ったときだけに姿を見せ
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ゴースト・トロピック(2019年製作の映画)

5.0

この作品の素晴らしさは、あらゆるショットが簡潔きわまりないという点につきている。優れた監督たちは、被写体に向けるカメラの位置やそれに投げかける照明、そしてその持続する時間など、どれもこれもがこれしかな>>続きを読む

Here(2023年製作の映画)

5.0

仮借のない吟味の機械が、ついに完成される瞬間を持つことなく不断に更新される現在に接近したり、遠ざかったりすることによって、わたしたちの瞳の代行手段となるばかりか、それ以上に驚くほど豊かな世界の無限の拡>>続きを読む

ストップ・メイキング・センス 4Kレストア(1984年製作の映画)

5.0

この作品との出会いを僥倖たらしめるものは何か。それは身体の運動──歌を歌うこと、楽器を弾くこと、音楽に合わせて踊ること等々──と、それに当てられる照明と、それを画面に生成するために接近したり遠ざかった>>続きを読む

最悪な子どもたち(2022年製作の映画)

4.2

映画。かりに、それがどれほど「真実らしい」光景を見るものに提供していようと、それはあくまでも「真実らしさ」にほかならず、すなわち「真実」のまがいものなのであって、間違っても「真実」そのものでない。その>>続きを読む

哀れなるものたち(2023年製作の映画)

5.0

明らかに寓話的な性格は比喩的な饒舌に重くたわむことのない簡潔さでひたすらエマ・ストーンの身体の運動をあたりに波及させることに貢献している。
つまりは抽象的な水準で誰もが想像しうる比喩にのみ還元してしま
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サン・セバスチャンへ、ようこそ(2020年製作の映画)

3.8

この作品を見るということは、ウディ・アレンの個人的な映画にわけ入るということである。
いま個人的と呼んでおいたものは、排除や選別の仕草ではない。
個人的であるとは、つまりは、何ものかからの差異を誇示す
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ノスタルジア 4K修復版(1983年製作の映画)

5.0

被写体に接近すること。
それは、誇張や逸脱が可能な領域であり、そこで人目を惹く過剰な細部は、被写体の輪郭が何かを確定するだけではなく、そこからこぼれ落ちそうになるものさえもすくい上げる。
被写体から遠
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ガートルード/ゲアトルーズ(1964年製作の映画)

-

ほとんど交わらない視線の交錯しあう奇妙な室内空間がもたらす演劇性が、どうしてこれほどわたしたちの映画的感情を動揺させるのか。そこでは、室内にある鏡も、写真も、二人の人間も、全てが色気を画面に定着させて>>続きを読む

僕らの世界が交わるまで(2022年製作の映画)

3.6

物語を万遍なくたどること、そして語られている事態を通して、そこから浮きあがってくる作者の思念ともいうべきものを納得すること。これが果たして映画を「見る」ということなのか。
この映画には運動感覚もないし
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奇跡(1954年製作の映画)

5.0

わたしたちが「奇跡」に惹きつけられるのは、その古典的な画面つなぎのリズムにもまして、それがもたらす唐突な開放感ゆえなのだろう。しかも、それが規則にかなったリズムのもたらす安心感ではなく、規則とは無縁の>>続きを読む

ミカエル(1924年製作の映画)

5.0

「ミカエル」の作品世界は「見ること・見られること」「描くこと・描かれること」の主題が織りあげる錯綜した戯れの場からなっている。われわれの映画的感性を動揺させるのは、この主題が物語の展開を支えているから>>続きを読む

東京の女(1933年製作の映画)

5.0

小津が「東京」の二文字にこめた暗さは、一九三〇年代にあっては、とりわけ「東京の女」に色濃く浸透している。「東京」の二文字の背後には、金銭をめぐる厄介な問題が横たわっており、父親や母親、あるいはそれに代>>続きを読む

非常線の女(1933年製作の映画)

5.0

その物語の軸になっているのは「着換えること」。ここでも人は「着換えること」で近づきあい、また別れてゆく。ここでの田中絹代が「着換えること」という小津的な主題を如実に体現する女性を演じている。そのとき、>>続きを読む

その夜の妻(1930年製作の映画)

4.2

「その夜の妻」の物語は、それ自体として感動的なものを含んではいるわけではない。そればかりか、小津の説話論的な持続の生々しいリズムが刻まれているわけでもない。それなのに、われわれの映画的感性を動揺させる>>続きを読む

青春の夢いまいづこ(1932年製作の映画)

4.4

身振りや視線の等方向性は初期の小津のいたるところに見られる。そこには視覚的効果以前に小津の遊戯性が反映しているといえるかもしれないが、その運動の等方向性によって感動的である。ほとんどの登場人物が同じ歩>>続きを読む

浮草物語(1934年製作の映画)

5.0

この映画を見るにあたって、あからさまに再映画化された「浮草」の相対的な偉大さを確信していく行為は重要でない。ここにある徹底された小津の説話論的な構造の響きを確かめていくことこそが重要なのだ。
例えば、
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