1930年に行方不明になった男がその数ヶ月前に家族を撮った、摩耗したフィルムの記録映像、現在の無人の風景、亡霊がオーバーラップで現在に現れて過去を再現する映像、の三つで成り立つ、リュミエール兄弟のシネ>>続きを読む
無駄なタルコフスキーのオマージュメモ:2ショットめの雨の中車が曲線を描いて停車するシーン(ノスタルジア)
生まれた場所に根を下ろして時を傍観する、植物のような老人の顔のクロースアップだけで異様な感じだった。尊敬している人が「老いた人間の皺は美しい、早くわたしも歳を取りたい」と言っていたのを思い出した。すご>>続きを読む
高校生ぶりに観た。こういう書き方はあれだが、芸術点が高すぎる。黒の衣装へのこだわりよ。これ本当に65年に撮られたのか。生きることは自分の意志とは関係なく祭りに巻き込まれることに過ぎないのかもしれない。
仕事をクビになった友人が、金のために道具商の屋根裏部屋に忍び込んで天使像を盗もうとしている。道徳的判断でそれを止めようとするが、天使像の神聖な顔つきを見て、「確かにこれはいいものに違いない」と感動して>>続きを読む
顔の強迫で疲弊しきって熱にうなされた画面をずっと見せられている感じが、新文芸坐の空調の暖かさと相まってつらい体験だった。老いがトラウマを癒すどころか、むしろその時間の経過が過去との和解を絶対に不可能な>>続きを読む
小粒ながらなんていい映画なんだ 笑える 村と街をつなぐ唯一の手段であり、外側から村にニュースを連れてくる一日一本だけ走るバスが、生死や欲望による不条理な祝祭でいちいち立ち往生し、それでもなお行き来する>>続きを読む
芳しい貴族的退廃はあるが、他のヴィスコンティ作品よりだいぶニューシネマっぽくておしゃれ 冒頭のものすごい速度で前進していくカメラワークとか、急にズームしたり引いたりする速度とか、部屋と部屋の外との壁越>>続きを読む
アメリカに亡命してきたナチスの残党の男が、鉄道の中で何度も練習した偽の入国理由の拙い英語の一フレーズを、実際に入国するときに発音した瞬間の微妙な沈黙だとか、何かが暴かれる肝心な瞬間に、急に上下に動き出>>続きを読む
ストローブ=ユイレの映画ってこうやってできてるんだな、暗室での二人の(ほぼユイレの)編集作業を覗きこめる ユイレが「優れた映画には必ずショットの接続の誤りがあって、それがいい」といった旨のことを言って>>続きを読む
「覚えてる?一千年前のことだった
このあたりの大西洋の岸辺の森に女たちが住んでいた
彼女たちの夫は十字軍の兵士として ほとんど常に家をあけていた
彼女たちは何ヶ月も森の中にこもり 夫の帰りを待ち続けて>>続きを読む
追い詰められて寄りかかった自室の壁がなぜか乾いてなくてねちょねちょで、手形がつきまくるところなど、細かい変な演出は見事
『カビリアの夜』でも思ったけど、フェリーニ作品の美しさは、集団が道をとぼとぼ歩いてどこかに向かうところにあるな
壁の質感、水、よくわからない空間感覚、遠景を吸い込む人間の顔、とてもベーラっぽい
間と緊張感、反復によって意味が失われた動作がなお反復される空虚さ、約束事は言葉によっても行動によっても絶対に破られるのだというお約束。『チェーホフ的モチーフ』に引き継がれるセンスにげらげら笑ってしまっ>>続きを読む
「ある愛についての物語」を観て、アンナ・カレーニナのことを思い出した。ウロンスキーとうまく行ってないから、ちょうどよく転がり込んできた初対面のレーヴィンに思いっきり愛想よく振る舞って腹いせにいい印象を>>続きを読む
カメラを回す側になることによってだんだん人や集団と距離ができてきて、睨まれてると気づいたときには周辺に立っている感じ、心当たりがあるな 撮影フィルムを缶から取り出して道にぶん投げるシーンなど、フォトジ>>続きを読む
映画を、集団の記憶としてのイメージから、映画史を超えたなにか聖書の中の出来事のような断片に変えることは、それらを進化させているのか退化させているのかわからん いずれにせよ言葉で行われることは行為で行わ>>続きを読む
根なし草として生きようとするけど若い女の根なし草は周りがそうは扱ってくれない、でもまあ別にその人たちが自分の生を生きているわけではないし苦しむのは自分なのだから、と図々しく開き直って放浪し散らかすモナ>>続きを読む
一度観てどうこう言えるものではなく、ちゃんと文字に遺しておこうと思いつつそのままにしてしまった ソクーロフという人は自己実現のために映画を撮ったことは一度もないと言うが、なるほど『フランコフォニア』で>>続きを読む