スリという行為は、同じ犯罪でも強盗や殺人のように己を誇示するものとは全く逆の性質を持つ。
犯罪を"静と動"に分類するならば、スリは間違いなく"静"にあたる。
道具もいらず、やろうと思えばすぐ出来る、人>>続きを読む
フェリーニがアルベルト・ラットゥアーダと共同で監督をした『8 1/2』の"1/2"にあたる作品。
端的に言うと浮気性のダメ男が真実の愛に気付くまでの話なのだが、これはその後のフェリーニ作品の主なテーマ>>続きを読む
ベルイマンの映画においての戦争は、影こそ感じるもののはっきりと描写されることは少なかった。
しかし今作は戦争を正面から描くことで、芸術の無力さを際立たせる事に成功している。
劇中の音楽家の夫妻は映画が>>続きを読む
あまりにも惨めなこの男からは、90分程度の枠には収まりきらない悲しき人生が窺える。
ベルイマン自身もそうだったように、人の愛し方を示す手本である父親という存在が、その役目を果たさない家庭で育ったのだろ>>続きを読む
冒頭の吃音の催眠療法は、まるでタルコフスキーの映画作家宣言のようだ。
タルコフスキーの父アルセーニーは、彼が幼い頃に家を出て行ってしまった。
詩人でもあった父を尊敬していたタルコフスキーは、離婚の原因>>続きを読む
映画冒頭の気球のシーンは、その傲慢さ故に身を滅ぼしたイカロスを想起させる。
タルコフスキーお馴染みの科学への批判、というよりも科学の発展が暴いた神の不在証明、ニーチェのあの言葉に対しての反論だ。
神を>>続きを読む
原作も素晴らしいので、是非観てください。
戦争で家族を失ったのは、イワンだけではない。
彼の周りにいる大人たちも等しく大切な人を失っただろう。
しかしこの映画で狂っているのはイワンだけだ。
それは何故か。人生を諦めていないからだ。
戦争を始>>続きを読む
映画大学在籍時に撮られた、タルコフスキーの処女作にあたる作品。
大いなる力を前に、それを受け入れる者、逃げ出す者など、様々な人間たちが描かれる。
この人間観は、後年の作品にも共通して描かれていくテー>>続きを読む
しつこいくらいに繰り返される赤のイメージに、初めはソ連礼讃映画かと思いきや、恐らくこれはラモリスの『赤い風船』のオマージュだ。
ラモリスにとっての「風船」とは無機物でありながらも人間の根源的な感情を映>>続きを読む
ベルイマンはアルマ役のリヴ・ウルマンと実際に交際しており、2人で島に住み、結婚はしなかったものの娘を授かっている。
そして本作の2年後に関係は終わっている。
更に夫役のマックス・フォン・シドーが作中で>>続きを読む
舞台となる橋もほぼセットだし、雪もニセモノ。
もちろん、役者たちもホームレスではない。
しかしこの映画は凄まじいリアリティを放っている。
そんな中で、パリの街から恋する2人しかいなくなるファンタジーの>>続きを読む
映画の2人が目指すイグアスの滝はアルゼンチンとブラジルを跨ぐようにして流れているらしい。
2つの物を分つようにも、1つの物を引き裂くようにも見える。
しかしその滝も真下に、つまり真裏にある香港へ向かっ>>続きを読む
プールへの飛び込みが象徴するのは、ここではない何処かへの希望、目の前にある自由への恐怖。
そしていざ飛び込んでみたら傷を負ってしまう。
まだ幼いシャルロットは、外の世界を強く願うあまり、そこへ連れ出>>続きを読む
3人の映画監督による、エドガー・アラン・ポーの新解釈。
人と馬から始まって、自己と自己、人と悪魔と、それぞれ対峙するものが違うにも関わらず、結局は全て自分自身を反映させた何かと対話する話。
自分の殻に>>続きを読む
美術や撮影にあれだけ拘っていたフェリーニが、映画は手段が目的を超えてはいけないと語る。
彼の映画にはあの恐ろしいまでの造り込みよりも、遥かに大きい主題があるということだ。
彼はネオレアリズモから出てき>>続きを読む
「人生とは近くから見れば悲劇だが、遠くから見れば喜劇である」とはチャップリンの有名な言葉だが、まさにこの映画の抱える問題はそのカメラの距離である。
主人公を取り巻く環境を、クローズでもロングでもない、>>続きを読む
はじめに混沌があり、それから光がきたというセリフから見るに、劇中の父とは神を、この2人の姉弟はアダムとイブを表している。
弟には労働の苦しみ、姉には産みの苦しみが与えられた事を示唆するような描写もある>>続きを読む
映画の冒頭に、「映画は全て嘘だ」というセリフが出てくる。
これは映画を愛する者にとってはごく当たり前のことで、疑いの余地はない。
しかしスペイン内戦によるフランコ政権の下で行われた検閲に対しては、痛烈>>続きを読む
外から来た少年と、外へ向かう老人。
自分の本当の寄る辺を探す為に、永遠のような1日を共に過ごす。
そうして見えてくるのは、アイデンティティの拠り所が見つからなければ、どこにも居場所などない、という事実>>続きを読む
作中で引用されるブレッソンの『たぶん悪魔が』とタルコフスキーの『惑星ソラリス』は、一つの考えに囚われた者の内面を描く内省的な作品だったが、今作は自己よりも社会に答えを求めるいわば"外"省的とも言える作>>続きを読む
いわゆる"映える"映像を強く打ち出し、この映画の持つ、人間は所詮外面だけしか見ていないというメッセージを強調する。
つまりここで取り扱われる貧困問題には目を覆い、「白黒のオシャレ映画」として消費する事>>続きを読む
人間としての価値が奪われた愛なき都市。
ゴダールはアンナ・カリーナを失って、愛が何か分からなくなったのだろう。
一見すると科学に支配された近代文明を揶揄しているようにも捉えられるが、アルファ60は論>>続きを読む
人々が武装し、奪い合う。
政府は腐敗し、広場には戦車が。
ヨーロッパやアメリカも、パレスチナと無関係ではない。
どこの国も様々な問題を抱えているが、故郷こそが天国にちがいないと思うことが大事なのだ。>>続きを読む
心の内面としての狭い部屋や店、そしてそこから逃れようとする葛藤。
ウォン・カーウァイの作品には同じイメージが頻出する。
2人の密会は基本的に部屋の中だし、外で会うシーンも鉄格子の中にいるように撮られ、>>続きを読む
ノートを使わないといけない理由をあれだけ熱弁していた教師が、代筆には気付かない。
これは明らかに反体制映画だ。
この映画の持つイデオロギーをパスしてしまう当時の検閲と、形骸化したルールを押し付けるあ>>続きを読む
元々は『恋する惑星』で展開するはずだったシナリオを独立させたのがこの映画という事で、かなり相関性が見られる。
殺し、覗き、店、バイク、ファストフード、ビデオカメラ。
全てが孤独の受け皿でしかなかった>>続きを読む
スクリーンの中を、何もかもが所狭しと動き回る。
とにかく動いて動いて、動きまくる。
映画とは、運動の美学だ!
明と暗、青と赤、静と動など、対比の効いた絵作りと、モダンなショット。
撮影ヴィットリオ・ストラーロの手腕が光る。
近年では多様性に対する意識も変わりつつあるが、撮影当時の1970年、ましてや舞台とな>>続きを読む
30分弱という短い尺で所謂SF的なセットもなし、静止画の連続で、映像が動くのは一箇所のみ。
しかしこれはSFの映画だと言い切れる。
圧倒的なイマジネーションで描き切る未来像は、後にありとあらゆる方向に>>続きを読む
出会っては別れて、失っては見つかって。
まさに川の流れのような映画だった。
小津は、襖や障子戸がカメラのファインダーやシャッターと同じ働きをすることを知っていたのだろう。
日本家屋や畳特有の規則正しく並んだ線たちが遠近感を際立たせ、その中で生きる人間たちを時に近付け、時に切り>>続きを読む
砂漠の真ん中にある、どこか浮世離れしているそのカフェに集まる人間の抱える問題はどこまでもリアル。
砂漠の暑さにのぼせながら見ていると、グリーンカードやビザやらの言葉で突然現実に引き戻される感覚を覚える>>続きを読む
先の見えない看病は、暗い階段を降りていくようだった。
その階段の下で、母親は思考を捨て感情に身を委ねる一方で父親はある種真理のようなものに近付く。
「病気は繰り返す」と呟く、祖母の姿が印象的。
クリスマスが近づくと、他人が他人に感じなくなる。
同じ気持ちを分け合う友達のような感覚。
子供も大人も関係なく、少しだけ他人に優しくなれる。
もちろんみんながみんな上手くいってるわけじゃなく、厳しい状>>続きを読む
クローズアップ、まばたきのような暗転、そしてジャンプカット。
本来隠すべき編集やカメラの影をこちらに明示する。
そして何より、強い作家性にヌーヴェルヴァーグの影響が見える。
大筋のストーリーに焦点を>>続きを読む