前に映画の編集をしている人の本を読んだ時に、編集とは時には監督よりも重要だ、と書いていたのをこの映画を見て思い出した。
劇中語られる指揮者の音楽論は、そのままフェリーニの映画論に思える。
これはオー>>続きを読む
1940年代、厳しい戦争の時代に、傷を癒してくれたのは音楽だけだったと、テレビの司会は語る。
そんな時代に活躍したジンジャー・ロジャースとフレッド・アステアのモノマネコンビ。
その2人が、娯楽と芸術性>>続きを読む
自由と希望、そして儚さ。
風船という無機物にさえ、愛情を感じることのできる人間の素晴らしさ。
なにより撮影技術が謎だ。
商業的に成功しないと映画を撮らせてもらえないという窮地から生み出された、ベルイマン流のコメディ。
テーマは愛の不毛だ。
作中で愛はゲーム、戦争だと明言されるが、その被害者はいつだって残された子供なの>>続きを読む
18世紀のイタリアに実在した、ジャコモ・カサノヴァの伝記的作品。
フェリーニがこの好色家に自分を投影しているのは明らかだが、彼は活力のない孤独な老人となったカサノヴァにさえ、自身を見出したのだ。
散々>>続きを読む
原題の『Ansiktet』はスウェーデン語で「顔」という意味らしい。
この場合、人間の持つ側面と訳すべきか。
作中で魔術や真実と言った目に見えない曖昧なものを神や神秘と表し、それに対抗するものとして>>続きを読む
これはダンテの『神曲』のエロ版だ。
フェリーニにとっての地獄として過激なフェミニズムが現れ、案内人に連れられて煉獄へ。
そこで罪を償っていよいよ天国へ、という所で目が覚める。
揺れる列車はセックスの>>続きを読む
ユロ氏が仕事をしている…。
極端に私生活を排除されていたユロ氏に確固たる個性が付与され、ユロというキャラクターの終わりが見える。
更にはトラブルに対しての受動と能動の関係すらも入れ替わっている。
今ま>>続きを読む
事件から何年も経っているのに、未だに昔自殺した女の子たちの事を話題にする男というなんとも気持ちの悪い始まり方をするこの映画。
彼女たちの事を理解しようとしない大人、性として消費する少年、破壊される環境>>続きを読む
フランスの港町、ル・アーヴル。
印象派の名前の由来となったモネの「印象・日の出」に、この港が描かれている。
そこを舞台に、フィンランドの監督が未だ実在する美しい街や純朴で崇高な魂を描く。
本当に観客>>続きを読む
敬虔なクリスチャンで、なにより自分のルールや世間体を優先する夫。
周りの男は下品でつまらないと、憧れのスター、つまりはフィクションにのめり込む妻。
しかしそんなスターの実情を垣間見てしまい、妻は憧れ>>続きを読む
社会へ反抗するように逃避行に繰り出す2人だったが次第に暗雲が立ち込め、いよいよ穏やかだった海が牙を剥き始める。
前半はまるでおとぎ話のようにきらめきを放っているが、ここから現実を鋭く切り取った話に転換>>続きを読む
人生は静と動のコントラストを繰り返す。
喧騒の昼間を終えれば、静かな夜が来る。
厳しい冬が終われば、穏やかな春が来る。
『アマルコルド』とは、フェリーニの故郷の方言で「私は覚えている」という意味らし>>続きを読む
ベルイマンは、母についての自己セラピーとしてこの映画を撮ったという。
彼の母は生前、ベルイマンを産んだ事を後悔していると日記に書いていたそうだ。
そんな母の色々な側面を登場人物たちに反映させ、それらを>>続きを読む
伝えたいテーマに対して、この方法がベストなのか疑問が残る。
目的と手段が入れ替わっているように思う。
インタビューを見るに即興演技がかなり多かったみたいだが、それに関しては上手く機能している。
作中で第七の封印が解かれることによって訪れる黙示録をペストとして描いているが、結果病を跳ね除け、人間は続いている。
神を信じようが信じまいが、平等に死は訪れる。
しかしそれは世界の終わりではない。
意>>続きを読む
過去にあった悲しい出来事を引きずったまま老いてゆく自分。
しかし、悲しみを抱えるのと抱え込むのは違う。それを糧として昇華させなければ生きていく事はできないと、メイクを落としながら気付く。
踊るのもや>>続きを読む
原作にあたる『サテュリコン』は置いておいて、この映画もフェリーニ流の耽美的退廃的狂乱に満ち溢れている。
『魂のジュリエッタ』からフェリーニの映画はカラー作品に移行していくが、それに伴い『道』などの非常>>続きを読む
人の目には神も愛も見えないが、愛は信じられる。
なら神はどうだろうか。
『処女の泉』で最後に沸く泉や、今作の教会にて差し込む光など、ベルイマンは神の不在を説きながらもその神秘を映像に落とし込んでいる>>続きを読む
フェリーニが愛したローマという都市の衰退を描くドキュメンタリーのような映画。
かつてのローマの熱気や喧騒がリアルに描かれ、監督自身が在りし日の都市に抱く愛やノスタルジーが痛いほど伝わる。
教会ファッシ>>続きを読む
靴をみがいてるシーンがほとんど無いでお馴染み。
戦後の貧しいイタリアをそのまま映し出すネオレアリズモというジャンルで有名なデ・シーカらしく、今作も鬼気迫るリアリズムに胸を締め付けられる。
劇中で描かれ>>続きを読む
超自然的視点から見た、タルコフスキーによる人類の救済。
世界の終末という抗いようのない力を前に、1人祈りを捧げる男。
そして祈りには犠牲が伴う。
タルコフスキーは火や水を世界の根源と捉える。
その聖な>>続きを読む
独身男性のキッチンでの動線を調査するという、少し変わった設定の映画。
主人公の調査員フォルケが担当するのは、一見気難しそうな老人イザック。
部屋の一角を陣取り、高い所から"観察"する構図が、徐々に曖昧>>続きを読む
見る者と見られる者、主体と客体についての映画であると同時に、レオス・カラックス本人についての映画でもある。
ベルイマンの『仮面/ペルソナ』と共通するテーマ。
映画人は映画という芸術を解体せずにはいられ>>続きを読む
ホドロフスキーはルールや常識の下らなさを教えてくれる。
彼が撮る映画では、しばしば小人症やダウン症の人達、動物や自身の息子たちに普通なら考えられない演出をさせる。
見る人によっては差別や虐待だと捉えら>>続きを読む
人間の持つ偏見と群集心理の恐ろしさ。
タイミングや状況次第で、映画に登場するどの人物にもなり得る人の脆さ。
中年男性が幼稚園で働いていたら、異常なのか。
離婚歴がある人間は、異常なのか。
カミュの『異>>続きを読む
公開後、女性蔑視という事でかなり批判されたらしい。
映画内で起きる事や、トリアーのフィルモグラフィを考えると確かにそう捉えることも出来るが、ラストの顔のない女たちが歩いてくるシーンは償いのようにも映る>>続きを読む
混乱したこの世界を救うものとは。
聖なる者の祈りか。科学か。芸術か。
タルコフスキーがこの映画で提示した答えは、科学や芸術すら超越した人類の更なる進化だった。
その進化をもたらすのはある種の高次的、超>>続きを読む
ロイ・アンダーソンによる人生讃歌。
「明日がある」をスローガンに、日々を生きる人間に対してエールを送る映画。
最後に飛来する爆撃機は夢か現実か…。
神なき世界で哀れな人間模様。
しかし明日はやってく>>続きを読む
今では固定カメラを用いた絵画のようなショットで有名なロイ・アンダーソンだが、長編デビューにあたる今作は、所謂普通の映画作法に則って撮られている。
しかし演出はやはり非凡で、若き男女の瑞々しい恋愛のみな>>続きを読む
舞台の上で様々な仮面を被る役者。
自分ではない誰かを演じるというのは、我々が思っているより危険な行為である。
アイデンティティーを曖昧にし、自我を切り分ける必要があるからだ。
それは撮影している監督も>>続きを読む
ジャック・タチ演じるユロ氏は大層な家に住んでいるが、その中で生活している様子は描かれない。
タチはわざと詳しい描写を避けている。
私生活が謎に包まれているからこそ、良い意味で彼を突き放して客観視する事>>続きを読む
ジャック・タチ演じる、ユロ氏の一夏の休暇。
観客はこの謎の男を、時に愛おしく感じ、時に突き放して笑い者にする。
彼に降りかかる悲劇を、喜劇として捉えられるギリギリの距離感。
知り合いならいいけど一緒に>>続きを読む
神に見放された人間達がもがき苦しむ。
実存主義的ではあるが、あまりにも希望がない。
しかし生きる意志だけははっきりと見て取れる。
哀れで惨め、未熟こそ人生。
だからこそ人は足掻くのだ。