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もし、今(映画が描く時間)が現世であるとするなら、前世に思いを馳せたときにはあらゆる可能性が噴出することだろう。故にヘソンは夜のバーで、もしかしたら自分たちにあり得たかもしれない可能性と、前世はどうだ>>続きを読む
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精神科医にかからずとも、誰しもなにかしらの症候があるものだ。ひとつの症候として見ると、それは閉じられたものに過ぎない。だが、その各々の症候を巡り合わせ、組み合わせると、不思議と運命は動きだし、開かれて>>続きを読む
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アンナ・パキンが演じる娘は天使=媒介者であり、この媒介者をピアノレッスンの間、締め出して直接性を享受しようとしたがために悲劇がもたらされるわけだが、そこからの救済もまた媒介者によってしか起こらない。ピ>>続きを読む
「何も考えてはいない」こと、「あなたが望む女」であること、そうした空虚ほど途方もない秘密を抱えているように見えるものもない。むしろそうした秘密は隠されることなく、秘密のままで皮膚を裏返されたかのように>>続きを読む
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「落下の解剖学」
本来であれば、真実に基づいて有罪か無罪かを決める場合、確実な証拠があってはじめて有罪であり、確実な証拠がなければ、〈無罪〉ではなく、〈有罪とはし得ない〉であるはずだ。だが、実際には>>続きを読む
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引き返すことによって引き返せない地点へ行き着くのか、あるいは一歩前に進めるのかは偶然によるが、そもそも引き返す行為自体が一歩どころか過度に物事を進めていることに他ならないので、息を整えて一歩を見定める>>続きを読む
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奇妙なことに新しい臓器が生まれ、摘出手術がアートやセックスに変わったとしても、アートやセックスの観念は全く進化を遂げていないということ、この点が問われるべきなのだろう。「未来の犯罪」とは、こうした分離>>続きを読む
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人は真実を見ようとしないことで、未知を招き寄せ、その両方を同時に見えるようにする。それは人の表と裏も同様であり、すべてが表層に浮上する。そこから身を隠すためには「世界を置き去りにして」地下に籠り、友人>>続きを読む
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芸術においては、創作以外のことも含めて思うようにいかないことが、必要な条件となる。翼の折れた鳩のように拘束されてあること、お湯の出ないシャワーのようにところどころ壊れていることからしか立ち現れて来ない>>続きを読む
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孤独と反復は常に生の側に立つ。平山という木に時折止まりにくる小鳥や、風を受けての感情のざわめき、木漏れ日がもたらす夢への反映をただ見つめているだけのような映画。
役所広司演じる平山を見ているようで、実>>続きを読む
シナリオの杜撰さを指摘されているが、むしろそうした杜撰さはエイリアンの餌食になるべきものとして必要なものである。この杜撰さはマイケル・ファスベンダー演じるデヴィッドが目論む創造(アンドロイドである自身>>続きを読む
白の愛は報復ではない。平等の愛は決して報復によってなし得るものではない。カロルをポーランドに密入国させるトランクは一方通行=追放だが、カロルの櫛を使って吹かれる草笛は往復運動をしており、一方通行と対を>>続きを読む
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「愛した男に裏切られたときには、その男を殺して水に還られなければならない」
これが水の精であるウンディーネにかけられた呪い=宿命であるとして、なぜヨハネスだけが水の中で殺されて、ウンディーネが水に還っ>>続きを読む
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遺作でしかあり得ない作品というものが存在する。その作品の後に作家が死んだからではなく、作品のなかに死の側からの眼差しが胚胎しているケースである。作家の死が偶然だとしても、作品を見る者にとっては作家の死>>続きを読む
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映画において馬の形象はどのような意味を持っているのか。またはその意味からの逸脱をも果たすとして、なぜ幾度も沈黙を守ったまま、あるときは俊敏に、またあるときはじっと動くことなくその場に留まって、フレーム>>続きを読む
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死者が思い出のなかに消えていくのは、死者自らが思い出となることを受け入れたということである。自らが思い出となることをどうしても受け入れられない場合、もうひとつ別の道がある。それは自らが生者の夢、生者の>>続きを読む
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フィリップ・ガレルにおける節約とは何か。色彩の節約によるモノクローム、製作費の節約による物語の簡素化と省略、演出と演技を抑制する節約による顔の仕草とその存在、はもちろんのこと、「涙の塩」においては別離>>続きを読む
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なぜ、ムルソーは亡くなった母の棺を開けずに母の顔を見ないのか。ムルソーが事あるごとに口走る「無意味」だからだろうか。ムルソーの「無意味」とは、ムルソーを含めたすべてが「無意味」なのか、それともムルソー>>続きを読む
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男性性から女性性へ、女性性からインディアンの少数部族へ。マイノリティーへと流れていくことは、水の流れと一致するはずだと信じて、三つの家族と案内人のミークは荒野を進んでいくかのようだ。しかし、問題となる>>続きを読む
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私とはこの世界が受けた傷である。
私がいなくなれば、この世界の傷は修復される。
世界は既に願いそのものであり、願いは成就されている。その世界に私という主体が裂け目を入れることにより、願いは切り離され>>続きを読む
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時間に対する問いは一旦脇に置いておいて構わない。それが主眼ではないからだ。「メッセージ」における真の問いはなぜ人は子をなすのか、なぜ女性は子をなして母となるのか(それも生まれた子がいずれは、若くしてか>>続きを読む
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第一章の冒頭で画面奥から走ってくる鎖のように連なる長い貨物列車、第二章の森でのジョギングの後に家族のいるテントに向かっているミシェル・ウィリアムズの隣を流れていく一本の川、第三章では弁護士であるクリス>>続きを読む
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脳の映画は身体の映画とは相入れない。そのため、身体の映画と比較するためにカサヴェテスの「こわれゆく女」が取り上げられ、主人公の女によって批判される。脳の映画においてはことごとく身体は傷を負わされ、取り>>続きを読む
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身体をポーズによって歪なかたちに固定、拘束し、モデルの内面以上の真実を空を破壊するほどの力を持った描線によって画布に描き込むこと。それは取りも直さず、対象となったモデルの内面を崩壊してしまうことを意味>>続きを読む
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人は自分の将来や利益を計算、予測しようとしてシミュレーションをするとき、思わず上を見てしまう。「ドント・ルック・アップ」とは腐敗した政治家たちが真実=彗星の衝突から人々の目を逸らせるために用いるキャッ>>続きを読む
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これは失われつつある西部を描くのではなく、既に終わっている西部を描くのでもなく、そもそものはじめから西部など存在していなかったのだとする映画である。なぜなら、フィルの牧場のはじまりのきっかけが同性愛で>>続きを読む
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涙とは悲しい時にも、嬉しい時にも流れる両義的なものである。そのため、古来より涙は象徴的なものとして扱われてきた。それはインディ・ジョーンズばりのアクション・アドベンチャーにおいても例外ではない。「ジャ>>続きを読む
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映画とは出会いの芸術である。人と人のではない。時間と時間との出会いである。人生における出来事、事象が早すぎるか、遅すぎるように、映画の中で交錯する時間もまた、早すぎるか、遅すぎるかである。
通常、我>>続きを読む
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この世界は女性の妊娠には見合っていない。女性が未成年の場合には特に。どうすれば、世界は女性の妊娠からの信頼を得ることができるのか。それは不可能なのか。まずはできないことの原因を探る必要がある。
この>>続きを読む
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まず注意して見るべきは、冒頭のすずの母が川の中洲に取り残された子供を助けに行って子供だけが助かり、自分は川に流されてしまうシーンで、如何にして人は見知らぬ他人を助けるのかという問い以上に、子供が川と川>>続きを読む
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映画は真っ白なスクリーンと、そこに映し出される走り、彷徨う登場人物たちの身体と心、その両方の影と、コントラストの強いモノクロームの映像とで恋というドレスを仕立て上げる。「小さな仕立て屋」の恋とはアルチ>>続きを読む
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鵞鳥湖の夜とは言葉のない夜のことだ。疑いと裏切りに満ち満ちた夜の中で、人を信じるに至るためには相手の言葉を聞いてはならないということを証立てるための夜だ。高架下でチョウがリウに信用できないと言うときの>>続きを読む
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役を引き受けることは身体の受難である。本来、現実においてはそうした役割は人形が果たしている。映画の冒頭での死体役でのマネキンがそうだ。汚い河に浮かべられ、何度もひっくり返されては、腕や脚をもがれ、石を>>続きを読む
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同一化が押し進められた先には、うまく重なり合うことのできなかった部分から差異が生まれるのだろうか。本当に差異には多様性が宿り、同一化を内から食い破るとはいかなくても、抵抗するためのよすがとなり得るのだ>>続きを読む
映画は常に映画からの失墜を描いてきた。失墜した先が路上=現実であり、路上=現実から養分を吸い取って、路上=現実へとその力を波及しようとしてきた。しかし、もし映画が映画から路上=現実へと失墜するまでの間>>続きを読む
愛とは越境である。示すことが難しいのは愛の方ではなく、越境の方である。先輩を訪ねて異国の地を踏んだとしても、ヨンヒはもちろん映画でさえ何も越えたことにはならない。だからこそヨンヒは異国の地の橋のたもと>>続きを読む