この手の映画としては説明的過ぎると思う(四十九日ってわざわざ言ってくれる)。
カメラも基本動かないし決して面白い映画ではない...が、松田龍平の死人役が合いすぎてる。喋って動いてても死体にしか見えな>>続きを読む
時間と共に薄められる歴史の告発、は良いとしても色々詰め込み過ぎて地に足がついてない印象。
溝口的な湖のモチーフ、この映画における水は、罪を覆い隠す、薄める、その為の水である気がする。
杉田水脈の発>>続きを読む
『2001年宇宙の旅』的なオープニングから始まる。その暗転のまま音響だけが響き渡るという冒頭は、"聞こえはするが見ようとはしない"、という映画の構図そのものに当て嵌まるので、引用にも意味があるとは思う>>続きを読む
昼のシーンの光量の多さは、それによる影、または夜のシーンとのコントラストを明確化させる為か。
恐らくそれは白と黒の碁石に由来する。
昼と夜、光と影、人間の表と裏、という二面性の図式が映画の主な構図>>続きを読む
"自然と動物と人間の図式"
空を飛ぶ鳥と地上を駆ける少女が同時に映される。
同じ水を飲む鹿と人間(あの水はうどん屋さんで使われている)
木の枝(自然)で怪我をする人間、鹿を狩猟する人間、鹿も条件>>続きを読む
いつもより破壊、破滅、爆発が少ない、つまり派手さを感じなかった。
それは北海道・函館の実際の観光名所を渡るご当地映画という側面と無関係ではないだろう。(ご当地映画なのにそこを爆発させて破壊する訳には>>続きを読む
素足で歩き出すカットの導入。誕生と自立の話。
室内の照明は常に薄暗く、プリシラを囲む牢獄としての家。その意味で柵に囲まれた犬はプリシラを象徴している。
それにしても、ほぼ"家から出るだけ"の話で映>>続きを読む
12年後と24年後に二人の関係が動き、24年後の再会直後に23丁目へ行く(過去に戻る)という数字遊び。再会して二人が話す後ろでは反時計回りにメリーゴーランドが回っている、という時間の映像表現が細部まで>>続きを読む